南米のチリ中南部からアルゼンチン南西部にかけ、マプチェ(Mapuche)と呼ばれる先住民族が独自の精神文化を継承しています。彼らの言語であるマプドゥングンで「大地の民」を意味するマプチェの信仰は、固定された組織や指導者が存在せず、地域や個人によって多様な形態を持つのが特徴です。
歴史的にマプチェの人々は、インカ帝国やスペイン帝国の侵攻を退けた強い独立心を持っていました。しかし、19世紀後半のチリ軍による制圧を経て、彼らは保留地への移住とカトリックへの改宗を強要される困難な時代を経験しました。それでも1990年代以降、アイデンティティの再発見とともに伝統宗教の復興が進み、現代では文化的な誇りとして、あるいは観光資源としても注目を集めています。

Key Facts
- 信仰の形態: 中央集権的な組織を持たない、多様で流動的な伝統信仰。
- 主要な神: 19世紀頃に登場した最高神「ングネチェン」が中心的な役割を果たす。
- 精神的指導者: 癒やしと神託を司る「マチ」が現代の儀式における中心人物。
- 宇宙観: 世界を「上・中・下」の3つの垂直な層で捉える三層構造のコスモロジー。
- 儀式の核心: コミュニティ全体の調和と宇宙の均衡を保つための祈祷儀式「ンギヤトゥン」。
マプチェの宇宙観と神々
三層の世界構造
マプチェの伝統的な世界観では、宇宙は3つの層に分かれており、それぞれが異なるエネルギーを持って互いに影響し合っています。最上層のウェヌ・マプ(Wenu Mapu)は、純粋さと創造の力が支配する天空の世界であり、神々や先祖の霊が住まう場所です。ここは白、黄色、青といった色彩と結びついています。
神々と自然の霊
彼らの神話には、4つの月の霊(メリ・クイエン)や4つの星の霊(メリ・ワンギュレン)など、多彩な神々が登場します。特に重要なのが最高神ングネチェン(Ngünechen)です。この神は「父なる神」と「母なる神」の両面を持ち、キリスト教の神と同一視されることもありますが、伝統主義者は独自の存在であると強調しています。
また、太陽(アントゥ)と月(クイエン)は夫婦であると考えられており、この概念はアンデス地域の他の文化(インカなど)とも共通しています。これは古代ティワナク帝国の影響であるという説があります。
魂の概念と先祖との絆
マプチェの教えでは、人間だけでなく動物や自然現象すべてに身体(トラタ)と精神的な本質が備わっていると考えられています。生者の魂は「ピュリュ」と呼ばれますが、死後も存続する魂として「アム」が存在します。
死者の霊は永遠の影の世界に住まうとされますが、生者と死者は相互依存の関係にあります。先祖を適切に祀らなければ、彼らが不満を持って現世に戻ってくると信じられているため、ワインやチチャ(伝統酒)を捧げるなどの供養が重要視されます。

儀式と精神的指導者
共同体儀式「ンギヤトゥン」
ンギヤトゥン(Ngillatun)は、コミュニティ全体で執り行う最も重要な祈祷儀式です。聖なる空間で、動物の犠牲や供物を捧げることで、宇宙のバランスを維持し、災害を防ぎ、豊作を祈願します。参加者は伝統衣装を身にまとい、聖なる柱「ンギヤトゥウェ」の周囲で円舞を踊ります。また、馬に乗った男性が太陽の動きを模して周囲を回る「アウウン」という舞いも行われます。

癒やし手「マチ」の役割
かつては多様な儀式専門家がいましたが、現在はマチ(Machi)がその役割を一身に担っています。マチは神や自然の霊、先祖と交信し、病気の診断や神託を行うシャーマンのような存在です。
マチになる道は、霊的な「召喚」から始まります。夢や幻視を通じて選ばれた者は、「マチクトラン」と呼ばれる激しい病(発熱や不眠など)に見舞われ、それを乗り越えて儀式的に入信することで能力を得ます。彼らは「クルトゥルン」という太鼓を使い、トランス状態で霊的世界へアクセスします。


治療と浄化のプロセス
マチによる治療(ダトゥン)では、病気の原因がどの神や悪霊(ウェクフェ)、あるいは呪術師(カルク)にあるのかを突き止めます。診断には尿の検査や太鼓を用いた儀式、マッサージなどが用いられます。また、自然界の植物には神聖な力が宿っていると信じられており、薬草を用いた治療も不可欠です。


光と影:カルクの存在
マプチェの世界観では、善意の力を持つマチに対し、悪意を持って力を振るうカルク(Kalku)という存在が対照的に配置されています。宇宙の均衡を保つためには、この相反する力のバランスが必要であると考えられています。時に、道を踏み外したマチがカルクになると信じられており、外部の人間(ウィンカ)がカルクとして警戒されることもあります。

現代における信仰の変容
現代のマプチェ社会では、伝統信仰とカトリックやプロテスタントなどのキリスト教が混在しています。一部の福音派グループは伝統儀式を「迷信」として否定することもありますが、一方で政治的な民主化が進んだ1990年代以降、伝統への回帰が進みました。現在では、政府高官が儀式に参加することもあり、文化的な承認が進んでいます。

| 項目 | 名称・内容 | 意味・役割 |
|---|---|---|
| 最高神 | ングネチェン | 創造と秩序を司る神(父と母の側面を持つ) |
| 指導者 | マチ | 癒やし、神託、霊的交信を担う専門家 |
| 主要儀式 | ンギヤトゥン | 宇宙の調和と豊作を願う共同体祈祷 |
| 聖なる道具 | クルトゥルン | トランス状態へ導くための儀式用太鼓 |
| 対立概念 | カルク | 悪意ある力を用いる呪術師 |
Frequently Asked Questions
マチ(Machi)とはどのような存在ですか?
マチは、神々や自然の霊、先祖の霊とコミュニケーションを取ることができる精神的指導者です。主に病気の診断や治療、未来の予言(神託)を行い、コミュニティの精神的な健康を維持する役割を担っています。
ンギヤトゥン(Ngillatun)では何を行いますか?
コミュニティ全体で集まり、聖なる柱の周囲で踊り、祈りを捧げます。動物の犠牲や農産物の供物を捧げることで、宇宙のバランスを整え、不作や災害などの不幸を避けることを目的としています。
マプチェの宗教に組織や教典はありますか?
いいえ、マプチェの宗教には教皇のような中央指導者や、聖書のような固定された教典は存在しません。口承伝承や個々のマチの経験、地域の慣習に基づいて受け継がれているため、非常に多様性のある信仰形態となっています。
伝統信仰とキリスト教の関係はどうなっていますか?
歴史的にカトリックへの改宗が強要されたため、多くのマプチェの人々が両方の信仰を併せ持つ「シンクレティズム(習合)」の状態にあります。最高神ングネチェンをキリスト教の神と同一視する場合もありますが、近年では純粋な伝統回帰を目指す動きも強まっています。
カルク(Kalku)とは何ですか?
カルクは、マチとは対照的に、悪意を持って超自然的な力を利用する呪術師のことです。マプチェの宇宙観では、善と悪の力が均衡していることが重要であり、カルクの存在もその対比構造の一部として捉えられています。
References
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