19世紀半ば、北米大陸の北西部にはオレゴン準州(Territory of Oregon)と呼ばれる広大な米国領土が存在しました。1848年から1859年まで続いたこの準州は、現在のオレゴン州だけでなく、ワシントン州やアイダホ州、さらにはモンタナ州やワイオミング州の一部までを含む巨大な領域を管轄していました。多様な国家が権利を主張し合ったこの地が、どのようにして組織化され、最終的に合衆国の州へと発展したのか、その歩みを辿ります。
Key Facts
- 存続期間: 1848年8月14日から1859年2月14日まで。
- 管轄範囲: 現在のオレゴン、ワシントン、アイダホ各州およびモンタナ、ワイオミングの一部。
- 州昇格: 1859年に南西部がオレゴン州として合衆国に加入。
- 行政の中心: オレゴンシティ、セーラム、コーバリスの3都市が首都として機能した。
- モットー: "Alis volat propriis"(自らの翼で飛ぶ)。
領土を巡る国際的な争いと共同管理
もともと先住民族が暮らしていたこの地域は、18世紀後半からヨーロッパ諸国の探検対象となりました。1777年のスペインによる航海を皮切りに、イギリスやアメリカの船舶が相次いで訪れます。その後、アレクサンダー・マッケンジーやルイス・クラーク遠征隊による陸路の探検、そして毛皮貿易の発展により、イギリスとアメリカの間で激しい領有権争いが繰り広げられました。
この対立を解消するため、1818年の条約によって「共同占領」という形態が採られました。これにより、現在のカナダ・ブリティッシュコロンビア州の南側から、アメリカ北西部の広大なエリア(オレゴン・カントリー)を両国が共有することになったのです。

入植の加速と暫定政府の誕生
共同管理時代、地域経済の中心はイギリスのハドソン湾会社が主導する毛皮貿易でした。しかし、1830年代になると宣教師たちが到着し、次第にトラッパー(罠猟師)たちが定住して農業を始めるようになります。1841年からは、いわゆる「オレゴン・トレイル」を辿って幌馬車でやってくる入植者が急増しました。
当時、この地には国家による統治機構が存在しなかったため、ウィラメット渓谷の入植者たちは自ら政府を組織することを模索しました。シャンポエグでの会合を経て、1843年には「オレゴン暫定政府」が設立されます。その後、1846年のオレゴン条約によって米国と英国の境界線が確定し、この地域は正式に米国の影響下に入りました。

オレゴン準州の組織化と統治体制
1846年の条約後も、連邦政府による組織化はすぐには行われませんでしたが、ホイットマン虐殺事件などの混乱を受けて、1848年8月14日に「オレゴン準州政府設立法」が可決されました。これにより、正式な準州としての体制が整いました。
準州の行政は、大統領が任命する知事、連邦保安官、秘書、検事、および3名の判事で構成される最高裁判所によって運営されました。一方、立法を担う二院制の準州議会は、地元の選挙によって選出された議員で構成されていました。
財政面では、町地や家畜、時計などの資産に対する年0.25%の財産税や、60歳未満の有権者に課される人頭税、さらに商人の資本金に応じたライセンス料などで運営されていました。なお、農地や農産物は非課税とされていました。
領土の分断と州への昇格
準州の首都は、当初のオレゴンシティからセーラムへ、一時的にコーバリスへ、そして再びセーラムへと移り変わりました。1853年には、コロンビア川下流の北側および北緯46度以北の地域が切り離され、「ワシントン準州」として独立しました。

1857年には州昇格に向けた憲法制定会議が開かれ、住民の承認を経て、1859年2月14日に現在の境界線を持つ「オレゴン州」として合衆国に加入しました。残された東部の地域(現在のアイダホ州南部およびワイオミング州西部)は、ワシントン準州に編入されることとなりました。

オレゴン準州の概要まとめ
準州時代の主要なデータと変遷を以下の表にまとめます。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 設立日 | 1848年8月14日 |
| 州昇格日 | 1859年2月14日 |
| 1850年時点の人口 | 13,294人 |
| 歴代首都 | オレゴンシティ → セーラム → コーバリス → セーラム |
| 主な知事 | ジョセフ・レーン、ジョン・P・ゲインズ、ジョージ・L・カリー 他 |
| 分立した準州 | ワシントン準州(1853年) |
Frequently Asked Questions
オレゴン準州はもともとどのくらいの広さがありましたか?
設立当初は非常に広大で、現在のオレゴン州、ワシントン州、アイダホ州の全域に加え、モンタナ州とワイオミング州の大陸分水嶺以西の地域までを含んでいました。
なぜ暫定政府が作られたのですか?
当時のオレゴン・カントリーには、どの国家も実効的な支配権を持っておらず、法的な統治機構がなかったためです。入植者たちが自らのコミュニティを維持し、秩序を保つために自発的に組織しました。
当時の税制はどのような仕組みでしたか?
主に財産税(0.25%)が課されており、家畜や時計、町地などが対象でしたが、農業を奨励するためか農地や農産物は非課税でした。また、有権者への人頭税や商人のライセンス料も徴収されていました。
ワシントン準州はいつ、どのようにして分離しましたか?
1853年、モンティチェロ会議の結果に基づき、連邦議会とミラード・フィルモア大統領の承認を得て、コロンビア川北側の地域がワシントン準州として独立しました。
1850年当時の人口分布はどうなっていましたか?
当時の人口は約13,294人で、マリオン郡(2,749人)やワシントン郡(2,652人)、クラカマス郡(1,859人)などの郡に集中していました。
References
- 9 323
- Howard M. Corning, ed. (1989). Dictionary of Oregon History. . p. 110.
- Horner, John B. (1919). Oregon: Her History, Her Great Men, Her Literature. The J.K. Gill Co.: Portland. pp. 28–29.
- Horner, pp. 53–59.
- Corning, p. 129.
- Horner, pp. 60–64.
- Corning, p. 186.
- Corning, p. 206.
- Corning, p. 240.
- Writers' Program of the in the (1940). Oregon: End of the Trail. . : . p. 191. 4874569.
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