19世紀後半のアメリカ、アリゾナ州トンブストーンという激動の街に、歴史の決定的な瞬間を記録し続けた写真家がいました。C.S.フライは、単なる肖像写真の枠を超え、戦場や災害現場に自ら赴くという、現代のフォトジャーナリズム(写真を用いた報道活動)の先駆けとなる手法を確立した人物です。
主要な実績と事実
- 歴史的記録: アパッチ族の指導者ジェロニモが降伏する際の唯一の写真を撮影。
- 先駆的な手法: スタジオに留まらず、重要な歴史的事件の現場へ出向いて撮影を行うスタイルを実践。
- 多才な経歴: 写真家としてだけでなく、コチーゼ郡の保安官(1894年〜1897年)も務めた。
- メディア展開: 『Harper's Weekly』などの全国誌に作品を提供し、全米にその名を広めた。
トンブストーンでの生活と写真スタジオの運営
1879年12月、C.S.フライと妻のモリーはアリゾナ準州のトンブストーンに到着しました。当初はテントで仮設スタジオを運営していましたが、1880年7月にはフレモント通り312番地に12室の寄宿舎を建設し、その奥に「フライ・ギャラリー」というスタジオと展示室を構えました。
当時の女性写真家は極めて稀でしたが、モリー・フライもまた熟練した技術を持っていました。彼女は夫が不在の間、スタジオの管理運営を担い、35セントという価格で客の撮影を行っていました。また、フライの弟であるウェブスターも写真家であり、1880年から1882年頃まで夫婦と共に暮らしていました。

フライの活動は街の中だけに留まりませんでした。1880年6月には、メキシコ国境に近いハーショウ鉱山キャンプに共同スタジオを開設。また、地元誌『The Arizona Quarterly Illustrated』の発行人トーマス・ガーディナーに作品を提供し、1880年7月号には彼の写真が版画として掲載されました。

フライのスタジオは、歴史的な事件の舞台にも隣接していました。1881年10月26日に発生した有名な「OK牧場の銃撃戦」は、彼のスタジオと寄宿舎のすぐ隣の路地で起きました。混乱の中、アイク・クラントンがフライのスタジオに逃げ込み、瀕死の状態にあったビリー・クラントンをフライがヘンリーライフルで武装解除させたというエピソードが残っています。

ジェロニモ降伏の瞬間を捉える
1886年3月、フライは歴史的なチャンスを掴みます。アパッチ族の指導者ジェロニモが、ジョージ・クルック将軍と会談するという情報を得た彼は、自らの機材を携えて軍の列に同行しました。メキシコのシエラマドレ山脈にあるカニョン・デ・ロス・エンブドスにて、彼は8×10インチのガラスネガを用いて約15枚の写真を撮影しました。

フライの特筆すべき点は、その妥協のない芸術的追求心です。緊迫した交渉の最中であっても、構図を良くするためにジェロニモや将軍に対し、「足を石の上に置いてほしい」「帽子を少しずらしてほしい」と具体的に指示を出していました。この大胆な振る舞いは、同行していたジョン・バークやツーソン市長のC.M.ストラウスによって記録されています。

これらの写真は、アメリカ政府と交戦状態にあった先住民を撮影した唯一の記録となり、後に『Harper's Weekly』などの雑誌に掲載され、フライに全米規模の知名度をもたらしました。また、1891年に出版された書籍では、当時最新の網点印刷(ハーフトーンプロセス)を用いて彼の作品が掲載されました。
災害記録と晩年の活動
フライの好奇心は自然災害にも向けられました。1887年5月にメキシコのバビスペを襲った大地震の後、彼はジョージ・E・グッドフェロウ医師に同行し、被災地の状況を記録しました。二人はシエラマドレ山脈を700マイル以上にわたって徒歩などで移動し、崩壊した建物や生存者の姿を撮影。これらの写真は、政府に提出された報告書の重要な視覚資料となりました。
その後、トンブストーンの経済状況が悪化すると、フライはビスビーやフェニックスなどの都市を転々としながら臨時スタジオを運営しました。1900年には、ビスビーの観光パンフレット『Souvenir of Bisbee』に、銅クイーン鉱山の発見者であるジョージ・ウォーレンの肖像写真などを提供しています。

私生活ではアルコール依存に苦しみ、一時的に妻のモリーと離別するなど困難もありましたが、1894年には民主党の指名を受けてコチーゼ郡の保安官に就任し、2年間その職を務めました。

まとめ:C.S.フライの足跡
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 主な活動拠点 | トンブストーン、ビスビー、フェニックス(アリゾナ州) |
| 歴史的功績 | ジェロニモ降伏の唯一の写真記録、地震被災地のドキュメント撮影 |
| 職業的役割 | 写真家、フォトジャーナリスト、コチーゼ郡保安官 |
| 使用技術 | 8×10インチガラスネガ、網点印刷(出版物にて) |
よくある質問
C.S.フライはどのような写真スタイルを持っていましたか?
当時の写真家の多くがスタジオでの肖像撮影に専念していたのに対し、フライは重要な出来事が起きている現場に自ら出向くスタイルを取りました。限られた技術の中で、できるだけありのままの姿を捉えようとする、現代の報道写真に近いアプローチを実践していました。
妻のモリー・フライはどのような役割を果たしていましたか?
モリーは自身も熟練した写真家であり、夫が遠征している間は「フライ・ギャラリー」の運営を一身に担っていました。当時の社会状況において、女性が写真スタジオを管理・運営していたことは非常に稀なケースでした。
ジェロニモの写真はどのようにして撮影されたのですか?
フライは軍の遠征隊に同行し、交渉の合間に撮影を行いました。彼は被写体であるジェロニモや軍関係者にポーズや向きを細かく指示し、芸術的な構図を追求して撮影したと言われています。
フライは写真家以外にどのような仕事をしていたのですか?
1894年にコチーゼ郡の保安官に選出され、1897年1月までその職を務めていました。また、地域の鉱山会社などのパンフレット制作に携わるなど、商業的な写真提供も行っていました。
彼の写真はどのようにして世に広まったのですか?
『Harper's Weekly』や『Frank Leslie's Illustrated Newspaper』といった全米で流通していた雑誌に作品を提供したことで、地域的な写真家から全米に知られる存在となりました。
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