ウィリアム・ヘッジズ:西オーストラリアの経済と政治を牽引した実業家

19世紀後半から20世紀初頭にかけてのオーストラリアにおいて、ビジネスと政治の両面で足跡を残した人物がウィリアム・ノア・ヘッジズです。彼はイギリスで生まれ、新天地オーストラリアで公共事業の請負業者として財を成し、その後は連邦議会議員としてフリーマントル選挙区を代表しました。実業家としての手腕と、時代の転換点における政治的決断を併せ持った彼の生涯を辿ります。

Key Facts

  • 政治キャリア:1906年から1913年まで、フリーマントル選挙区から連邦下院議員を務めた。
  • ビジネス実績:鉄道、港湾施設、埠頭などの大規模な公共事業請負に従事し、材木業でも成功を収めた。
  • 政治的変遷:西オーストラリア党から始まり、後に自由党(Liberal Party)へ合流。
  • 後年の活動:西オーストラリア州雇用主連盟の会長を、没する1935年まで務めた。

実業家としての歩み:インフラ整備への貢献

1856年にイングランドのハートフォードシャー州ボックスムーアで生まれたヘッジズは、1878年頃にオーストラリアへ渡りました。当初はクイーンズランド州に滞在し、その後南オーストラリア州へ移住して、マウント・バーカーでの石切り場運営や建設業に従事しました。

彼は優れた事業能力を発揮し、埠頭や鉄道、港湾施設といった公共インフラの建設請負を次々と獲得しました。また、アレクサンドリナ湖付近で農業経営にも取り組むなど、多角的な事業展開を行いました。

1893年、ゴールドラッシュの熱狂に沸いていた西オーストラリア州へ移住したヘッジズは、再び公共事業請負として活動。さらに、東ゴールドフィールズ地方で材木および薪の販売会社の主要株主兼専務取締役に就任し、経済的な成功を確固たるものにしました。また、ナレムビーン近郊に「クールベリン」という牧場を設立するなど、土地開発にも尽力しました。

政治の世界へ:フリーマントルでの躍進と葛藤

政治への関心は早くからあり、南オーストラリア州時代にはマウント・バーカー地区評議会での経験を積んでいました。西オーストラリア州移住後、1904年の州議会選挙(イルガーン選挙区)に挑戦したものの、この時は惜しくも落選しています。

転機が訪れたのは1906年の連邦選挙でした。ヘッジズはジョン・フォレスト率いる西オーストラリア党の支持を得て出馬し、現職の労働党議員ウィリアム・カーペンターを破ってフリーマントル選挙区から下院議員に当選しました。当選当時、彼は特定の指導者や党派、派閥に縛られない独立した立場を強調していましたが、議会入り後は野党のクロスベンチ(中立的な席)に就いたため、政府閣僚であったフォレストとの間に緊張が生じました。

その後、1909年に保護主義者と反社会主義者が統合して結成された自由党に熱烈に合流。彼はこの統合を「オーストラリア連邦結成以来の最良の出来事」と高く評価しました。1910年の選挙でも自由党候補として再選を果たしましたが、1913年の選挙では労働党のレジナルド・バーチェルに敗れ、議席を失いました。

失職後も政治への情熱は消えず、ナショナリスト党の支持を得て3度にわたり再出馬を試みました。1918年のスワン選挙区補欠選挙、1919年の連邦選挙、そして1922年の古巣フリーマントル選挙区での挑戦でしたが、いずれも当選には至りませんでした。

私生活と晩年

1884年、南オーストラリア州ウィストウでエリザベス・パターソンと結婚し、3男3女の父となりました。また、ブレクアップに私邸として「ハイランド・バレー・ホームステッド」を建設し、豊かな生活を営みました。

政治の第一線を退いた後も、1929年から没するまで西オーストラリア州雇用主連盟の会長を務め、経済界のリーダーとして活動し続けました。1935年11月21日、パースにて79歳で没しました。彼の遺産は当時の評価額で195,199ポンド(2022年価値で約2,100万ドル相当)に上る、莫大な資産を築いていたことが分かっています。

項目 詳細
生没年 1856年7月16日 - 1935年11月21日
主な職業 公共事業請負業者、会社取締役、政治家
議員任期 1906年12月12日 - 1913年5月31日
代表選挙区 フリーマントル(西オーストラリア州)
所属政党 西オーストラリア党(1906年)、自由党(1909年以降)
主な役職 西オーストラリア州雇用主連盟 会長(1929年-1935年)

Frequently Asked Questions

ウィリアム・ヘッジズはどのようなビジネスで成功しましたか?

主に公共事業の請負業者として、鉄道、港湾施設、埠頭などのインフラ建設に従事しました。また、西オーストラリア州のゴールドフィールズ地方で材木・薪販売会社の経営に携わり、牧場経営も行うなど多方面で成功を収めました。

政治的な立場はどのように変化しましたか?

当初は西オーストラリア党の支持を得て出馬し、特定の派閥に属さない独立した姿勢を示していましたが、1909年の「融合(Fusion)」を経て自由党に合流し、党の熱心な支持者となりました。

議員としての任期はどのくらいでしたか?

1906年から1913年まで、約6年半にわたりフリーマントル選挙区の下院議員を務めました。

議員失職後も政治活動を続けましたか?

はい。ナショナリスト党の支持を得て、1918年の補欠選挙、1919年の連邦選挙、および1922年の連邦選挙の計3回、再選を目指して出馬しましたが、当選には至りませんでした。

晩年はどのような活動をしていましたか?

1929年から亡くなる1935年まで、西オーストラリア州雇用主連盟の会長を務め、地域の経済界を率いていました。