西オーストラリア州初の立法議会選挙(1890年)の全貌
1890年12月、西オーストラリア植民地では歴史的な転換点となる選挙が行われました。これは、新たに制定された憲法によって責任政府(内閣が議会に対して責任を負う自治体制)が認められ、創設された「立法議会(Legislative Assembly)」の議員30名を選出するための初の試みでした。
それまでの政治体制では、一部のみが選挙で選ばれる「立法評議会(Legislative Council)」が唯一の議事機関でしたが、この改革によって西オーストラリアは本格的な自治への道を歩み始めることになります。
Key Facts
- 目的: 新憲法に基づく初の立法議会議員30名の選出。
- 政治状況: 組織的な政党や派閥は存在せず、極めて静かな選挙戦であった。
- 競争率: 全30議席のうち、実際に争われたのはわずか11議席のみ。
- 結果: ジョン・フォレストが初代首相として就任し、初の政府が組織された。
選挙の背景と特異な政治状況
歴史家のブライアン・デ・ガリス氏が「かなり静かな出来事だった」と評するように、当時の選挙は現代のような激しい政争とはかけ離れたものでした。そもそも、投票によって政権を交代させるという概念自体がなく、組織化された政党も存在していなかったためです。
この選挙の根拠となった新憲法は、1890年8月21日に英国議会で制定され、同年10月21日にパースで公布されました。これにより、西オーストラリアは自らの意思で統治を行う法的基盤を得たことになります。
選挙プロセスと日程
選挙は11月末から12月中旬にかけて、地域ごとに段階的に実施されました。候補者の指名締め切りは11月27日から12月5日までに行われ、投票日も地域によって5日から12日まで分散していました。
特筆すべきは、多くの選挙区で候補者が一人しか立候補しなかったことです。セプティマス・バートなどの人物は、十分な数の適任者が集まるか懸念していましたが、結果として30議席中19議席が無投票となりました。一部の無投票選挙区では、公式な投票日の前に地元団体による非公式な選出が行われるなど、独自の形式が取られました。

初代首相の決定と政府の発足
選挙後、ウィリアム・ロビンソン総督は、選挙結果が出るまで政府の任命を保留する方針を採りました。当初はスティーブン・ヘンリー・パーカーが初代首相になると予想されていましたが、状況は一変します。
元測量総監として行政経験を持つジョン・フォレストが、自身の経験を強みに首相の座を積極的に志願したためです。ロビンソン総督はこの主張を受け入れ、1890年12月22日にフォレストへ政府組織を依頼。12月29日、フォレストと新内閣の閣僚たちが正式に就任宣誓を行いました。
1890年選挙の概要まとめ
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 選出議席数 | 30議席 |
| 競争のあった議席 | 11議席(うち3人以上の候補者がいたのは2議席のみ) |
| 憲法公布日 | 1890年10月21日(パース) |
| 初代首相 | ジョン・フォレスト(1890年12月29日就任) |
| 政治体制 | 政党不在の個人ベースの政治 |
Frequently Asked Questions
この選挙が歴史的に重要だったのはなぜですか?
西オーストラリア州が英国からの責任政府(自治権)を獲得し、初めての民選立法議会を設置した、民主的な統治の出発点となったためです。
当時の選挙戦はどのような雰囲気でしたか?
現代のような政党間の争いはなく、非常に静かなものでした。多くの選挙区で候補者が不足し、無投票で当選が決まるケースが大多数を占めていました。
ジョン・フォレストが首相に選ばれた決め手は何でしたか?
彼が元測量総監として政府運営の実務経験を持っていたことです。この経歴を根拠に自ら立候補し、総督に認められました。
「責任政府」とは具体的にどういう意味ですか?
政府(内閣)が、任命権者ではなく、選出された議会の信任に基づいて権力を維持し、議会に対して責任を負う政治体制のことです。
投票は一度に全州で行われたのですか?
いいえ。地域ごとに指名締め切り日と投票日が分かれており、12月5日から12日にかけて段階的に実施されました。