水という生命に不可欠な資源を、国家が管理するのか、あるいは民間企業に委ねるのか。イングランドとウェールズでは1989年、世界的に見ても極めて稀な「水道・下水道サービスの完全民営化」という大胆な転換が行われました。かつては公衆衛生の根幹をなす公共サービスとされていた水供給が、どのようにして市場経済の仕組みに組み込まれ、そして現在どのような議論を巻き起こしているのかを詳しく解説します。
Key Facts
- 1989年の転換: 10の地域水道局(RWA)が民営化され、民間企業へと移行した。
- 世界的な特異性: イングランドとウェールズは、水・下水道システムを完全に民営化した世界で唯一の地域となった。
- 財務的支援: 政府は民営化に際し、約50億ポンドの債務を引き受け、さらに15億ポンドの公的資金(グリーン・ダウリー)を供与した。
- 現状の不満: 2017年の世論調査では、国民の83%が再国有化を支持している。
- 環境問題: 未処理下水の放出などの環境汚染と、インフラ投資不足が深刻な課題となっている。
公共サービスから市場へ:民営化への道のり
19世紀初頭の英国では、多くの水道施設が民間によって運営されていました。しかし、次第に政府の規制が強まり、20世紀初頭までには大部分が地方自治体の管理下へと移りました。当時、ジョセフ・チェンバレンなどの政治家は、営利目的の民間企業と市民の利益を両立させることは困難であると主張し、国有化の必要性を説いていました。

水は「商品」ではなく「公衆衛生上の必需品」と定義され、社会的な公平性の観点から、メーター制ではなく物件価値に基づいた料金体系で普遍的に提供されていました。この体制は1974年まで続き、その後、エドワード・ヒース政権下の水法(1973年)により、流域単位で管理を行う10の地域水道局(RWA)が設立されました。この「流域管理」という概念は、取水から処理、環境保護までを一元化し、効率性を高めた画期的な試みとして評価されました。
しかし、1980年代に入ると状況が悪化します。サッチャー政権による借入制限などの影響で、インフラへの投資が激減しました。1980年の投資額は1970年のわずか3分の1にまで落ち込み、水質の低下やEUの環境基準への不適合という深刻な事態を招きました。EU基準を満たすためには240億〜300億ポンドという巨額の資金が必要でしたが、公的部門ではその調達が不可能な状況にありました。

民営化の実行と体制の構築
政府は1984年と1986年にも民営化を提案しましたが、強い国民的反対に遭い、一時的に計画を凍結しました。しかし、1987年の総選挙で勝利した保守党政府は、速やかに民営化を断行しました。10の地域水道局は、合計76億ポンドで民間企業へと売却されました。
設立された主要な水道会社
民営化によって、以下のような地域別の水道会社(WSC)が誕生しました。
- Thames Water(テムズ・ウォーター)
- Severn Trent Water(セバーン・トレント・ウォーター)
- Anglian Water(アングリアン・ウォーター)
- Yorkshire Water(ヨークシャー・ウォーター)
- North West Water(ノース・ウェスト・ウォーター)
- Southern Water(サザン・ウォーター)
- South West Water(サウス・ウェスト・ウォーター)
- Wessex Water(ウェセックス・ウォーター)
- Northumbrian Water(ノースンブリアン・ウォーター)
- Dŵr Cymru Welsh Water(ドゥル・カムリ・ウェルシュ・ウォーター)
同時に、サービスの質を担保するための規制機関として、飲料水検査局(DWI)などが設立され、監視体制が整えられました。
民営化がもたらした影響と現代の論争
民営化から数十年が経過し、その成果については厳しい視線が注がれています。スコットランドや北アイルランドでは公営体制が維持されていますが、イングランドとウェールズでは、多くの水道会社がプライベート・エクイティ・ファンドなどの所有となり、節税戦略や配当優先の経営が問題視されています。
経済的・環境的な不平等
グリーンウィッチ大学の研究によれば、イングランドの消費者は、国営のままだった場合に比べて年間23億ポンド多く支払っていると推計されています。また、インフレや金利上昇に伴い、企業の債務負担が増大し、それが料金値上げの圧力となっています。
さらに、「環境正義」の観点からも批判が集まっています。2023年には、未処理の下水が約360万時間分も放出され、その多くが政治的影響力の弱い農村部や経済的に困窮した地域に集中していました。インフラ維持のコストや汚染の被害は弱者が負い、利益は株主が享受するという構造的な不公正が指摘されています。
カメルフォード事件と隠蔽疑惑
民営化のプロセスにおける不透明さを象徴するのが、1988年のカメルフォード水質汚染事件です。当時の内部文書により、当局が民営化への影響を懸念し、起訴や情報公開を意図的に遅らせた疑いが浮上しました。2012年の検視官による判断でも、民営化を優先させるために事件の真相が即座に公表されなかったという強い疑念が示されています。
まとめ:水インフラの現状
| 項目 | 民営化前(〜1989年) | 民営化後(1989年〜) |
|---|---|---|
| 運営主体 | 地方自治体・地域水道局(公営) | 民間水道会社(WSC) |
| 料金体系 | 物件価値に基づく(非メーター制) | 使用量に基づくメーター制・市場価格 |
| 投資資金 | 政府補助金・公的借入 | 民間資本・企業債務 |
| 主な目的 | 公衆衛生の維持・普遍的提供 | 効率的な運営・株主への利益還元 |
Frequently Asked Questions
なぜ水事業を民営化したのですか?
最大の理由は、深刻なインフラ投資不足の解消でした。当時の公的部門ではEUの厳しい水質基準を満たすための巨額の資金を調達できず、民間資本を導入することで設備投資を加速させ、効率性を向上させることが目的とされました。
すべての英国で水が民営化されているのでしょうか?
いいえ。完全民営化が行われたのはイングランドとウェールズのみです。スコットランドと北アイルランドでは、現在も水・下水道サービスは公的所有のまま運営されています。
民営化によって消費者はどのような不利益を被りましたか?
インフレ率を上回る料金の上昇や、一部の地域での未処理下水の放出といった環境悪化が挙げられます。また、研究によれば、公営体制よりも高い料金を支払っている可能性が指摘されています。
「環境正義」とはこの文脈で何を意味しますか?
インフラ整備の遅れや汚染などの環境的コストが、政治的・経済的に弱い立場にあるコミュニティに偏って押し付けられている状況を指します。利益は株主が得る一方で、リスクを市民が負うという不均衡な構造への批判です。
再国有化の動きはあるのでしょうか?
はい。世論調査では大多数の国民が再国有化を支持しており、「We Own It」などの団体が、水を市場の商品ではなく公共の権利として取り戻すべきだと主張しています。
References
- A century later, the same argument was made in the case against privatisation by Sir Geoffrey Chandler, a former senior executive and a champion of corporate social responsibility, who wrote in in 1989: "Anxiety must be heightened by the fact that the company law under whose regime these activities, once privatised, will come imposes a legal obligation solely to the shareholder."
- The UK was prosecuted in the for its failure to implement the 1980 EU Drinking Water Quality Directive and the 1976 Bathing Water Directive by the 1985 deadline.
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