全米失業者評議会(UC)の歴史と大恐慌時代の社会運動
1930年代、世界大恐慌の荒波に飲み込まれたアメリカ合衆国で、失業した労働者たちの権利を守るために立ち上がった組織がありました。それが全米失業者評議会(Unemployed Councils of the USA、以下UC)です。アメリカ共産党が主導して設立されたこの組織は、単なる支援団体ではなく、政府に直接的な救済を迫る急進的な大衆組織として機能しました。
UCは、絶望的な状況にあった失業者たちに「組織化」という武器を与え、食糧や住居の確保、そして制度としての失業保険の確立を目指して激しい闘争を展開しました。
Key Facts
- 設立目的:失業労働者の組織化と動員による、政府への救済要求。
- 主導組織:アメリカ共産党(CPUSA)およびその傘下の労働組合統一連盟(TUUL)。
- 活動規模:1930年から1932年の間に、138の都市で700回以上の抗議行動を実施。
- 主な成果:強制立ち退きへの抵抗による住居回復や、失業問題の国家的な政治課題化。
- 終焉:1936年、社会党系の「アメリカ労働者同盟(WAA)」へ統合。
組織の成り立ちと前史
UCのルーツは、第一次世界大戦後の経済低迷期である1921年にニューヨークで結成された「ニューヨーク失業者評議会」にまで遡ります。当時はアメリカ労働連盟(AFL)や世界産業労働組合(IWW)などの労働団体が幅広く支持し、都市レベルでの解決策を模索していました。
当時のハーバート・フーヴァー商務長官(後の大統領)は、産業界と労働界のリーダーを集めた会議を主導し、ボランティアベースの「市長委員会」を各地に設置させることで対応しようとしました。しかし、1922年頃に景気が回復すると、これらの運動は急速に衰退しました。その後、1920年代を通じて共産党は失業者の組織化を試みましたが、経済的な繁栄が続いていたため、目に見える成果を上げることはできませんでした。
大恐慌による再編と急成長
1929年後半に始まった世界大恐慌は、状況を一変させました。大量の失業者が街に溢れる中、共産党は「飢えるな、戦え!(Fight—Don't Starve!)」というスローガンを掲げ、労働組合統一連盟(TUUL)を通じて失業者評議会のネットワークを再構築しました。
国際失業者の日と組織の独立
1930年3月6日、コミンテルンの号令により「世界失業者闘争の日」が設定されました。「仕事か賃金を(Work or Wages)」という要求の下、全米で数十万人がデモに参加。この大規模な盛り上がりを機に、共産党は組織の正式な確立へと動きます。
1930年3月末にニューヨークで開催された予備会議を経て、同年7月4日と5日にシカゴで創立大会が開かれました。1,320人の代表者が集結し、TUULの傘下から独立した「全米失業者評議会(UC)」が正式に誕生しました。ビル・マシソンが全国書記に選出され、38名の全国委員会が運営を担いました。

組織構造と具体的要求
UCは、選挙区や区レベルの「行動委員会」を最小単位とし、それが集まって「市評議会」、さらに「郡評議会」へと積み上がるピラミッド型の構造を採用しました。彼らは単なる抗議に留まらず、具体的な立法案を提示しました。
- 失業保険法案:失業者に週35ドル、扶養家族1人につき週5ドルの支給を要求。
- 財源の確保:2万5,000ドル以上の資産や5,000ドル以上の所得を持つ層への課税による「国家失業保険基金」の創設。
- その他の要求:1日7時間労働制の導入、冬期の緊急救済金支給、ソビエト連邦の外交承認など。
激化する抗議活動と「ハンガーマーチ」
UCの活動は、都市部での激しいデモへと発展しました。1930年10月のニューヨーク市庁舎前でのデモでは、騎馬警備隊との衝突が発生し、周辺の店舗の窓ガラスが割れるなどの騒乱となりました。
また、1931年には「全国飢餓行進(National Hunger March)」のための委員会が設立されました。シアトルやポートランド、サンフランシスコなど全米各地から失業者がワシントンD.C.へ行進し、連邦政府に失業保険の導入や、失業者1人あたり150ドルの緊急冬期救済金を要求しました。1932年の行進には約3,000人の代表者が参加し、個々の議員に直接訴えかけました。
抗議行動の拡大推移
| 年 | 抗議回数 | 展開都市数 | 特記事項 |
|---|---|---|---|
| 1930年 | 107回 | 47都市 | ニューヨーク、デトロイト、シカゴ等で展開 |
| 1931年 | 約214回 | 85都市 | 前年の約2倍に拡大 |
| 1932年 | 389回 | 138都市 | ニューヨークではほぼ毎日(計123回)実施 |
組織の統合と歴史的評価
1934年以降、国際的な共産主義運動はファシズムの拡大を阻止するため、リベラル層や他の左翼団体と連携する「人民戦線(Popular Front)」路線へと転換しました。これに伴い、UCは社会党系の「アメリカ労働者同盟(WAA)」や、A.J.マステ率いる「全国失業者連盟(UL)」との統合を模索します。
1936年4月8日、ワシントンD.C.での統合大会により、UCとULはWAAに吸収合併されました。この統合により、共産党は組織名を放棄し、執行委員会の少数議席を受け入れることとなりました。
後世への影響と評価
UCの活動に対する評価は分かれています。反共主義的な歴史家ユージーン・ライオンズは、彼らを「騒乱を引き起こす集団」と見なしつつも、失業問題を国家的な立法課題に押し上げた点では「相対的な成功」を収めたと評しています。
一方で、フランシス・フォックス・ピヴェンらは、UCの急進的な戦術が実質的な救済につながったと主張しています。特に、強制立ち退きに対する物理的な抵抗運動により、ニューヨーク市だけで7万7,000人が住居を取り戻したとされています。また、家賃支払い拒否運動(レントストライキ)や、政府の救済申請のサポートなど、生活に直結した支援を行った点が高く評価されています。
Frequently Asked Questions
全米失業者評議会(UC)とはどのような組織でしたか?
1930年にアメリカ共産党が主導して設立した、失業労働者のための大衆組織です。世界大恐慌下で、失業保険の導入や政府による救済を求めるため、デモや行進などの直接行動を展開しました。
UCが具体的に求めていたことは何ですか?
主な要求は、週35ドルの失業手当の支給、富裕層への課税による失業保険基金の創設、1日7時間労働制の導入、そして冬期の緊急救済金の支給などでした。
「ハンガーマーチ(飢餓行進)」とは何ですか?
失業者が全米各地から首都ワシントンD.C.へ行進し、連邦議会に対して失業保険の法制化や緊急支援を直接的に要求した大規模な抗議行動のことです。
UCはどのようにして消滅したのですか?
1930年代半ば、ファシズムに対抗するための「人民戦線」路線に基づき、他の左翼団体との連携が進められました。その結果、1936年に社会党系の「アメリカ労働者同盟(WAA)」に統合されました。
UCの活動にはどのような実質的な成果がありましたか?
政治的な成果として失業問題を国家的な議題に上げたほか、現場レベルでは強制立ち退きへの抵抗を通じて多くの人々が住居を維持できたことや、政府の救済制度への申請を支援したことが挙げられます。