A plaque at the site of Negro Fort marking the location of the powder magazine
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ネグロ・フォートの興亡自由を求めた逃亡奴隷たちの拠点と悲劇の結末

🗓 2026年8月15日

19世紀初頭、現在のフロリダ州の辺境に、自由を渇望した人々が集う短命ながらも象徴的な要塞が存在しました。ネグロ・フォート(別名:プロスペクト・ブラフの戦い、アフリカン・フォート)は、単なる軍事施設ではなく、逃亡奴隷たちが自立したコミュニティを築こうとした希望の地でした。しかし、その存在は当時のアメリカ南部にとって大きな脅威となり、最終的に激しい攻撃によって壊滅することになります。

Key Facts

  • 設立目的: 1814年、米英戦争中にイギリス軍がアメリカ南西境界からの攻撃拠点として建設。
  • コミュニティの構成: 元イギリス軍のコロニアル・マリーンを含む逃亡奴隷、クリーク族、セミノール族などが集結。
  • 壊滅の要因: 1816年7月27日、米軍の放った「熱い砲弾(ホットショット)」が火薬庫に命中し大爆発が発生。
  • 歴史的特異性: 米国が他国(当時のスペイン領フロリダ)にある逃亡奴隷のコミュニティを破壊した唯一の事例。
  • 影響: この事件が引き金となり、後の第一次セミノール戦争へと発展した。

要塞の建設と自由への誘い

ネグロ・フォートの歴史は1814年5月、イギリス軍がジョン・フォーブス社(John Forbes and Company)の交易ポストを占拠したことから始まります。イギリスの戦略は、アメリカ南部の州を「アメリカ人の軛(くびき)」から解放するという名目で、南西境界から侵攻することにありました。

建設された要塞は、数エーカーの広大な敷地を囲む正方形の堀と、高さ約1.2メートルの木製柵、そして東側の角に配置された稜堡(りょうほ)を備えていました。内部には兵舎や倉庫のほか、73樽の火薬を保管する火薬庫が設置され、多数の武器や工具、船舶などの設備が整えられていました。

ภาพประกอบบทความ

イギリス軍は兵力を確保するため、周辺のクリーク族やセミノール族、そして黒人集落に武器や制服を配布して勧誘を行いました。特に、土地を奪われていたクリーク族は熱狂的に応じ、彼らの呼びかけで多くの黒人が集まりました。ペンサコーラのスペイン領から逃れてきた人々も数百人に及び、1814年当時、エドワード・ニコルズ大佐の指揮下には、アメリカへの攻撃に意欲的な約3,500人の兵力が集結していました。その多くは、スペインへの返還を避けるために英語名を採用し、米国からの逃亡者であると主張して自由を勝ち取ろうとしていました。

逃亡奴隷たちの聖域と外交的摩擦

この拠点は、単なる軍事基地ではなく、抑圧から逃れた人々にとっての聖域となりました。しかし、この状況にスペイン当局は強く反発しました。フロリダ総督のマテオ・ゴンザレス・マンリケは、逃亡した奴隷の返還を繰り返し要求しましたが、イギリス側はこれを巧みに回避しました。

1815年4月、スペインの使節ピンタドが要塞を訪れた際、イギリスのスペンサー大尉は、逃亡者たちを強制的に返還することはないと明言しました。ピンタドは128人のスペイン系奴隷と面会しましたが、自発的に戻ることに同意したのはわずか10人の女性のみでした。イギリス軍はその後、米英戦争の終結に伴い撤退しますが、ニコルズ大佐は同盟者に対し、半年以内に戻ることを約束して要塞を後にしました。

米軍による攻撃と壊滅的な結末

イギリス軍が去った後も、ネグロ・フォートは逃亡奴隷たちのコミュニティとして機能し続けました。しかし、テネシーやミシシッピからも逃亡者が集まる状況に、アメリカ南部のプランテーション所有者たちは「反乱の火種」となることを恐れ、激しく反発しました。ジョン・クインシー・アダムス国務長官は、ここを「匪賊の巣窟」と呼び、攻撃を正当化しました。

1816年7月27日、ダンカン・クリンチ中佐率いる米軍と、戦利品の権利を約束されたクリーク族の連合軍が総攻撃を仕掛けました。

Duncan Clinch, when he was a young officer of the United States

要塞側には、元コロニアル・マリーンのガルソン、プリンス、サイラスらを中心とした約330人が立てこもっていました。彼らには女性や子供を含む家族も含まれていました。米軍の降伏勧告に対し、リーダーのガルソンはイギリス軍の命令に従い拠点を死守することを宣言し、妥協しない意思を示す赤旗を掲げました。

激しい砲撃戦の中、米海軍の砲艦から放たれた「熱い砲弾」が要塞の火薬庫に直撃しました。これにより猛烈な大爆発が起こり、要塞は一瞬にして崩壊しました。この爆発音は160キロ以上離れたペンサコーラまで届いたと言われています。生存者はわずか60名程度とされ、多くが即死しました。生き残った黒人たちは再び奴隷へと戻され、リーダーのガルソンらは処刑されました。

A plaque at the site of Negro Fort marking the location of the powder magazine

戦後の影響と歴史的意義

この攻撃により、米軍とクリーク族は2,500丁のマスケット銃や数百丁のピストルなどの膨大な武器を回収しました。一方で、同盟関係にあったセミノール族は強力な味方を失い、米軍による要塞破壊への怒りが、翌年の第一次セミノール戦争へとつながる要因となりました。

生き残った人々の一部は、スワニー川流域やタンパ湾、あるいはバハマのニコルズ・タウンへと逃れ、新たな生活を模索しました。また、800人以上の元コロニアル・マリーンはトリニダードへ移住しました。この事件は、国家の境界を越えて自由を求めたコミュニティが、当時の権力構造によっていかに残酷に抹消されたかを物語っています。

項目 詳細
建設時期 1814年(米英戦争中)
主要構成員 逃亡奴隷、元コロニアル・マリーン、クリーク族、セミノール族
壊滅日 1816年7月27日
攻撃側 アメリカ合衆国軍、クリーク族連合軍
結果 要塞の完全破壊、コミュニティの崩壊

Frequently Asked Questions

ネグロ・フォートとはどのような場所でしたか?

もともとは米英戦争中にイギリス軍が建設した軍事拠点でしたが、その後、自由を求めて逃れてきた黒人奴隷や先住民たちが集まり、自立したコミュニティを形成した場所です。

なぜアメリカ軍はわざわざ攻撃したのですか?

逃亡奴隷たちが武装して自由なコミュニティを持つことは、当時のアメリカ南部における奴隷制という社会構造にとって大きな脅威であり、他の奴隷たちに反乱を促す危険があると考えられたためです。

要塞が破壊された直接的な原因は何ですか?

米海軍の砲艦が放った「熱い砲弾(ホットショット)」が、要塞内部の火薬庫に命中し、大規模な爆発を引き起こしたことが直接的な原因です。

この事件の後、生き残った人々はどうなりましたか?

多くは再び奴隷として連れ戻されましたが、一部の人々はスワニー川流域やバハマ、トリニダードなどへ逃れ、そこで新たな生活を始めました。

この戦いはその後の歴史にどのような影響を与えましたか?

この攻撃によるセミノール族の怒りが、後の第一次セミノール戦争の勃発に寄与しました。また、アンドリュー・ジャクソンによるフロリダ征服の端緒となった出来事でもあります。

References

  1. Enclosure 6b to Erving. The testimony of a Royal Marine deserter from the Fort, sworn at Mobile on 9 May 1815, advising "the British left, with the Indians, between them three and four hundred negroes, taken from the United States, principally Louisiana
  2. Enclosure 7 to Erving. Letter from General Gaines dated 22 May 1815 "P.S. I learn that Nicholls[sic] ..is still at Appalachicola, and that he has 900 Indians and 450 negroes under arms
  3. Enclosure 8 to Erving. Memorandum of a gentleman of respectability at Bermuda, dated 21 May 1815 "Admiral Cochrane, however, appears to have disapproved of Nicholls's conduct in affording protection to the Spanish slaves, and had sent the Hon. Captain Spencer to Pensacola for the purpose of making arrangements for their restoration; who accordingly proceeded to Appalachicola, with Captain Pintado, named commissioner on the part of the Spaniards."
  4. [Spencer] solemnly declared that, under no circumstances, were [Spanish fugitive slaves] to board English ships
  5. Owsley notes 'When the British finally evacuated Apalachicola, a number of these blacks chose to go with them... Many of them chose to remain near the fort at Prospect Bluff.' Their "choice" in the matter was limited, for the reasons given by Landers.
  6. Vice Admiral Cochrane wrote to Nicolls on February 14, and to Admiral Malcolm on February 17 stating "when Peace is concluded you are to embark Major Nicolls... there will be no farther occasion for the Marine Garrison, which.... you will order to be embarked, and sent to Bermuda"
  7. On my arrival [on April 7 at] Prospect Bluff the officers and enlisted men were ready for the evacuation; this was fully completed within the fifteen days following that date.
  8. A letter from Spencer to Cochrane dated February 17, 1816 does mention that the Indian Chiefs were 'obeying Brevet Major Nicolls' orders until 22 April [1815]', whereupon Spencer sailed away.
  9. 'COL. NICOLLS:-It appears that this great man has left the Floridas for Bermuda, in the gun-brig Forward, accompanied by captain Woodbine; an indian chief and about 50 slave troops.'
  10. JUNE 10.-"It is proper your excellency should know that on the 7th inst. a brig and transport arrived at Amelia Island, with col. Nichols, captain Woodbine; an Indian Chief, and his son.

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