20世紀の演劇および映画界において、比類なき影響力を誇ったのがローレンス・オリヴィエです。シェイクスピア劇の権威として、またナショナルシアターの初代芸術監督として、彼は英国演劇の黄金時代を築き上げました。そのキャリアは、厳格な宗教的背景を持つ幼少期から、ハリウッドでの成功、そして晩年のテレビドラマへの挑戦まで、常に変革と挑戦の連続でした。

Key Facts

  • 演劇の原点: オールセインツ校の聖歌隊員時代に演劇の才能を開花させ、若くして名優たちに認められた。
  • シェイクスピアの追求: オールド・ヴィック劇場で技術を磨き、世界的なシェイクスピア俳優としての地位を確立。
  • 映画界での成功: 『嵐が丘』や『レベッカ』などでアカデミー賞にノミネートされ、舞台とは異なる「映画的リアリズム」を習得した。
  • 組織への貢献: ロンドンのナショナルシアター初代監督を務め、英国演劇の制度的基盤を整備した。
  • 不屈の精神: 晩年は皮膚筋炎という難病に苦しみながらも、テレビ作品などで最高峰の演技を披露し続けた。

幼少期から学生時代:演劇への目覚め

1907年、サレー州ドーキングに生まれたオリヴィエは、聖職者の家系に育ちました。父ジェラードは英国国教会の高教会派(儀式を重視する派閥)であり、その影響で幼少期は転居を繰り返す不安定な生活を送りました。

転機となったのは、ロンドンのオールセインツ校への入学です。ここで彼は、アングロ・カトリック特有の儀式的な礼拝形式に強い関心を抱きました。この「演劇的な」宗教体験が、彼の表現欲求を刺激します。10歳の時に演じた『ジュリアス・シーザー』のブルータス役は、当時の名女優エレン・テリーに「すでに偉大な俳優である」と絶賛されるほどでした。

The house in Wathen Road, Dorking, Surrey, where Olivier was born in 1907
interior of ornate Victorian church

その後、オックスフォードのセント・エドワーズ校へ進んだ彼は、卒業間際に演じた『夏の夜の夢』のパック役で絶大な人気を獲得します。兄がインドへ旅立った際、父から「お前は舞台へ行く運命だ」と告げられたことが、プロの俳優としての第一歩となりました。

young woman, dark-haired, in left profile

若き日の苦闘とハリウッドへの挑戦

1920年代後半、オリヴィエは舞台でキャリアをスタートさせますが、初期の作品選びには苦戦し、短期間で閉幕する作品が続きました。しかし、ノエル・カワードとの出会いが転機となり、『プライベート・ライフ』でウェストエンドでの成功を掴みます。

1930年代に入ると、経済的な理由から映画界にも進出します。当初、彼は映画を「偉大な演技に耐えられない貧弱な媒体」と軽視していましたが、1931年にRKOピクチャーズと契約し、ハリウッドへ渡ります。初期の米国活動では、既存のスターに似せた役作りを求められるなど、自身の芸術性と商業的な要求の間で葛藤することとなりました。

young woman and man seated at a table with maid standing centre

オールド・ヴィックでの研鑽とヴィヴィアン・リーとの出会い

1936年、オリヴィエはシェイクスピア劇の聖地であるオールド・ヴィック劇団に加入します。ここで彼は、自身の演技スタイルを徹底的に磨き上げました。また、この時期に運命的な出会いを果たしたのが、女優のヴィヴィアン・リーです。

デンマークのエルシノア城で上演された『ハムレット』での共演を機に、二人は激しい恋に落ちます。互いの配偶者に別れを告げ、共に歩む道を選んだ二人は、私生活と仕事の両面で深い結びつきを持つこととなりました。

exterior of Victorian theatre

映画的リアリズムの獲得と戦争時代

1939年の映画『嵐が丘』への出演は、彼のキャリアにおける重要な転換点となりました。監督ウィリアム・ワイラーの厳しい指導の下、オリヴィエは舞台特有の誇張された演技(演劇的な外殻)を脱ぎ捨て、スクリーンに適した「生々しい現実感」を身につけます。この作品で彼は、世界的な映画スターとしての名声を確立しました。

studio still of young man and woman in outdoor setting
young woman clinging as if for protection to slightly older man

その後、1940年代にはラルフ・リチャードソンと共にオールド・ヴィック劇団を共同運営し、英国演劇の最高峰とも言われる豪華なアンサンブルを実現させました。しかし、劇団運営を巡る内部対立により、彼らの体制は突然の終焉を迎えることになります。

group of journalists visiting film studios
middle-aged man, receding hair, with neat moustache

ナショナルシアターの創設と後年の活動

1963年、オリヴィエは念願のナショナルシアター初代芸術監督に就任します。彼は組織の基盤作りと作品制作の両立に心血を注ぎ、多くの才能ある演出家や俳優を招集しました。一方で、私生活ではヴィヴィアン・リーとの関係が悪化し、1961年にはジョーン・プラウトと再婚しています。

woman and man seated on aeroplane steps
woman and man seated and looking towards camera
middle-aged man with young woman on stage

1970年代に入ると、健康状態が悪化し、皮膚筋炎(皮膚や筋肉に炎症が起きる自己免疫疾患)を発症します。しかし、彼は絶望せず、むしろテレビという新しい媒体に活路を見出しました。ドキュメンタリーのナレーションや、晩年の傑作となった『リア王』のテレビ映画など、衰えぬ情熱で演技を続けました。

colourful Hollywood film poster
elegantly ageing man in cravat

1989年7月11日、82歳でこの世を去った彼の遺灰は、ウェストミンスター寺院の「詩人のコーナー」に埋葬されました。これは、彼が演劇という芸術に捧げた人生への、最高の賛辞と言えるでしょう。

キャリア概要まとめ

ローレンス・オリヴィエの主要キャリア・タイムライン
時期 主な活動・役割 特筆すべき成果・作品
1910-20年代 学生時代・舞台デビュー オールセインツ校での早熟な才能の発揮
1930年代 ハリウッド進出・オールド・ヴィック加入 『嵐が丘』での映画的演技の確立
1940年代 劇団共同運営・シェイクスピア追求 オールド・ヴィックでの黄金時代の構築
1960年代 ナショナルシアター初代監督 英国国立劇場の制度的基盤の創設
1970-80年代 テレビ作品への転向・晩年 『リア王』など、病と闘いながらの名演

Frequently Asked Questions

オリヴィエが映画演技について考えを変えたきっかけは何ですか?

初期は映画を軽視していましたが、『嵐が丘』の撮影時にウィリアム・ワイラー監督から厳しい指導を受けたことで、舞台的な誇張を捨てた「現実的な演技」の重要性を学び、映画という媒体の可能性を認めるようになりました。

ヴィヴィアン・リーとの関係は仕事にどのような影響を与えましたか?

二人は互いに刺激し合うパートナーであり、共に多くの舞台や映画に出演しました。特にオールド・ヴィック時代や、その後の共同活動を通じて、英国演劇界における最強のカップルとして注目を集めました。

ナショナルシアターでの彼の功績は何ですか?

初代芸術監督として、政府からの資金提供を受けて新しい劇場の建設と運営体制を整えました。また、ジョン・デクスターやウィリアム・ガスキルといった有能な演出家を起用し、現代的な演劇の方向性を提示しました。

晩年に彼がテレビ作品に注力したのはなぜですか?

皮膚筋炎という病により、体力的に激しい舞台演劇を続けることが困難になったためです。しかし、彼はテレビという媒体を最大限に活用し、繊細な表情や声の演技で、舞台とは異なる深みを表現しました。

彼が最も得意とした役柄は何でしたか?

シェイクスピアの悲劇的な役柄(ハムレット、リチャード三世、リア王など)で絶大な評価を得ましたが、晩年には『マラソンマン』のような、卑劣で不気味な悪役でもその才能を遺憾なく発揮しました。