19世紀のヨーロッパにおいて、バラバラだったドイツ諸邦をどのように統合して一つの国家にするかという課題は「ドイツ問題」と呼ばれました。この議論の中心にあったのが、小ドイツ主義(Kleindeutschland)と大ドイツ主義(Großdeutschland)という二つの対立する構想です。
小ドイツ主義とは、簡単に言えば「多民族国家であるオーストリア(ハプスブルク家)を排除し、プロイセン主導でドイツ統一を実現させる」という解決策を指します。対する大ドイツ主義は、オーストリアを含めた広範なドイツ語圏の統合を目指すものでした。最終的に歴史は小ドイツ主義の方向へ進み、現在のドイツの原型が形作られることになります。
Key Facts
- 定義:オーストリアを排除し、プロイセンを中心にドイツを統一する構想。
- 対立軸:オーストリアを含む「大ドイツ主義」と激しく対立した。
- 実現時期:1867年から1871年にかけて、プロイセン主導で現実のものとなった。
- 結果:1871年にドイツ帝国が成立し、「小ドイツ」的な枠組みが定着した。
- 背景:オーストリア帝国の多民族的な性質が、単一のドイツ国民国家形成の障壁となった。
ドイツ連邦の構造と「連邦外」領土
1815年に設立されたドイツ連邦は、神聖ローマ帝国の版図を概ね引き継いでいました。しかし、当時の主要国であったプロイセンとオーストリアは、領土のすべてが連邦に加入していたわけではありませんでした。
例えば、プロイセンの旧本拠地(東プロイセン)や、両国が分断して支配していたポーランド領などは「連邦外(bundesfremd)」とされ、連邦の軍事保護の対象外となっていました。一方で、連邦の境界線内部にある地域は「連邦属領(bundeszugehörig)」と呼ばれ、この区別が後の統一議論に複雑な影響を与えることになります。

革命の時代:1848年の葛藤と挫折
1848年に勃発した革命により、ドイツ国民議会が設置され、憲法制定による統一国家の建設が模索されました。当初はオーストリアの連邦属領を組み込むことが当然視されていましたが、次第に現実的な問題が浮上します。
民族問題と国家の整合性
オーストリア帝国全体を統合すれば、帝国内の多様な民族問題がそのまま新国家の負担となります。そのため、国民議会は「連邦属領のみ」の受け入れを提案しましたが、ハプスブルク家は帝国の統合性を維持するため、このような分割案を拒絶しました。
プロイセンへの期待と拒絶
1849年3月になると、議会の多数派は小ドイツ主義へと傾き、プロイセン王をドイツ皇帝に選出しました。しかし、プロイセン王は議会が提示した立憲的な帝国のあり方を嫌い、この王冠を拒否しました。これにより、議会による統一の試みは一度失敗に終わります。その後、プロイセンは自らの絶対主義的な方針に基づいた統一(エルフルト連合)を計画しますが、ここでもオーストリアは排除されていました。
小ドイツ主義の現実化:プロイセンの覇権
1850年代以降、プロイセンは連邦内での地位向上を図り、次第にオーストリアとの主導権争いを激化させます。1860年代に入ると、イタリア戦争で弱体化したオーストリアに対し、プロイセンはより積極的な改革を提示しました。
普墺戦争と北ドイツ連邦の成立
1866年、プロイセンはオーストリアを除いた連邦国家への移行を提案しましたが、対立は避けられず普墺戦争へと発展します。プロイセンの勝利によりドイツ連邦は解散し、代わって「北ドイツ連邦」が設立されました。この際、プロイセンは東プロイセンやポーランド領(ポゼン州など)を併合し、領土を拡大させました。
ドイツ帝国の誕生
1870年に勃発した普仏戦争を機に、南ドイツの諸邦が北ドイツ連邦に合流しました。オーストリアは自国の弱体化とドイツ語圏住民の心情から、この流れを止めることができず、1870年12月に小ドイツ主義に基づく統一を事実上認めました。これにより、1871年に「ドイツ帝国(Deutsches Reich)」が成立したのです。

まとめ:小ドイツ主義の歴史的意義
小ドイツ主義の採用は、単なる領土の選択ではなく、多民族帝国としての道ではなく、プロイセン主導の国民国家としての道を選んだことを意味します。一度この体制が確立されると、「ドイツ」という言葉は自然とこの小ドイツ的な枠組みを指すようになり、大ドイツ主義はその後、第一次世界大戦後やナチス時代まで断続的に主張される政治的理想にとどまりました。
| 比較項目 | 小ドイツ主義 (Kleindeutschland) | 大ドイツ主義 (Großdeutschland) |
|---|---|---|
| 中心となる国家 | プロイセン王国 | オーストリア帝国(ハプスブルク家) |
| オーストリアの扱い | 排除する | 包含する(またはドイツ語圏を統合) |
| 主な課題 | プロイセンの絶対的権力への懸念 | 多民族国家による内部矛盾と不安定さ |
| 最終的な結果 | 1871年のドイツ帝国成立により実現 | 実現せず(後の政治的運動へ) |
Frequently Asked Questions
小ドイツ主義が採用された最大の理由は何ですか?
最大の理由は、オーストリア帝国が多民族国家であったことです。オーストリアをすべて組み込むと、ハンガリー人やチェコ人などの非ドイツ系民族が大量に流入し、単一のドイツ国民国家としての統治が困難になると判断されたためです。
大ドイツ主義はその後どうなりましたか?
1871年以降、政治的な影響力は低下しましたが、オーストリアやドイツ語圏を統合したいという願望は残り続けました。これは第一次世界大戦後の混乱期や、1938年から1945年のナチス政権下で再び政治的に利用されることとなりました。
プロイセン王はなぜ最初、皇帝の座を拒否したのですか?
1848年のフランクフルト国民議会が提示した皇帝の地位は、議会による民主的な手続きに基づいたものでした。絶対主義的な権力を保持したかったプロイセン王にとって、そのような制約のある帝国のあり方は受け入れがたいものでした。
「北ドイツ連邦」と「ドイツ帝国」の違いは何ですか?
北ドイツ連邦は、普墺戦争後にプロイセンが主導して北部の諸邦をまとめた暫定的な連邦国家です。これに普仏戦争を経て南ドイツの諸邦が加わり、より広範な統一国家となったものがドイツ帝国です。
冷戦時代のドイツではどのように呼ばれていましたか?
東西に分断されていた冷戦時代、再び統一された一つのドイツを目指す構想は「Gesamtdeutschland(全ドイツ)」と呼ばれていました。
References
- Wolfram Siemann: Die deutsche Revolution von 1848/49. Suhrkamp Verlag, Frankfurt 1985, pp. 195-197.
- Michael Kotulla: Deutsche Verfassungsgeschichte. Vom Alten Reich bis Weimar (1495–1934). Springer, Berlin 2008, p. 527.
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