映画の黄金時代を支えた撮影監督の一人に、ハロルド・ロソンがいます。彼はサイレント映画の黎明期からカラー映画の全盛期まで、半世紀にわたってハリウッドの視覚表現をリードしました。名作の数々に刻まれた彼の映像美は、今なお多くの映画ファンやクリエイターに影響を与え続けています。
Key Facts
- キャリアの始まり:1908年にブルックリンのヴィタグラフ・スタジオで俳優として活動を開始。
- 代表作:『オズの魔法使』や『雨に唄えば』など、MGMの黄金期を代表する作品を撮影。
- 栄誉:1936年に『アラーの庭』でのカラー撮影により名誉オスカー賞を受賞。
- 活動期間:1908年から1958年まで現役として活躍し、その後一度だけ復帰。
映画界への第一歩と修行時代
ロソンのキャリアは、1908年にニューヨークのフラットブッシュにあるヴィタグラフ・スタジオで俳優としてスタートしました。その後、マーク・ディンテンファス・スタジオにてアーヴィン・ウィラットの助手となり、撮影の基礎を学びます。
1912年頃には、証券会社のオフィスボーイとして働きながら、フェイマス・プレイヤーズ・スタジオで助手やエキストラ、雑用係として奔走するという、非常に多忙な日々を送っていました。彼がこのスタジオで携わった最初の作品は、1915年公開の『デイヴィッド・ハラム』でした。
ハリウッドへの移住と飛躍
1914年12月、ロソンは活動の拠点をカリフォルニア州へ移し、メトロ・ピクチャーズに加入します。第一次世界大戦中はアメリカ陸軍に従軍しましたが、除隊後は再び映画の世界に戻り、マリオン・デイヴィーズ主演の『ダーク・スター』に携わりました。この縁からデイヴィーズ社との契約を結ぶことになります。
さらに1920年には、当時の大スターであるメアリー・ピックフォードと契約し、主に彼女の弟であるジャック・ピックフォードと共に活動しました。これらの経験が、後の大スタジオでの活躍に向けた強固な基盤となりました。
MGM時代と色彩への挑戦
1930年代に入ると、ロソンはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と契約し、スタジオの看板作品を次々と撮影します。特に、ファンタジーの金字塔『オズの魔法使』(1939年)や、ミュージカル映画の傑作『雨に唄えば』(1952年)、『オン・ザ・タウン』(1949年)、『宝島』(1934年)など、視覚的な完成度が求められる作品でその手腕を発揮しました。
特筆すべきは、1936年の『アラーの庭』での挑戦です。ロソンにとって初めてのカラー撮影となったこの作品で、彼はW.ハワード・グリーンと共に名誉オスカー賞を受賞するという快挙を成し遂げました。
| 期間・年代 | 所属・主な活動 | 特記事項 |
|---|---|---|
| 1908年〜 | ヴィタグラフ、フェイマス・プレイヤーズ | 俳優から始まり、助手として経験を積む |
| 1914年〜 | メトロ・ピクチャーズ、デイヴィーズ社 | カリフォルニアへ移住し、プロとしての地位を確立 |
| 1920年〜 | メアリー・ピックフォード事務所 | ジャック・ピックフォードらと共に活動 |
| 1930年代〜 | MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー) | 『オズの魔法使』等の名作を撮影し、オスカーを受賞 |
晩年と伝説の締めくくり
ハリウッドで長く輝かしいキャリアを築いたロソンは、1958年に映画界を引退しました。しかし、その才能は引退後も求められ、1966年にはジョン・ウェイン主演、ハワード・ホークス監督の映画『エル・ドラド』のために一時的に復帰し、最後を飾りました。
Frequently Asked Questions
ハロルド・ロソンが撮影した最も有名な作品は何ですか?
特に『オズの魔法使』や『雨に唄えば』といった、映画史に残るMGMの代表的な名作の撮影を担当したことで知られています。
彼はいつ、どのような賞を受賞しましたか?
1936年に、デヴィッド・O・セルズニック製作の『アラーの庭』におけるカラー撮影の功績が認められ、W.ハワード・グリーンと共に名誉オスカー賞を受賞しました。
カラー映画の撮影経験は豊富だったのでしょうか?
実は、オスカー賞を受賞した『アラーの庭』が、彼にとって初めてのカラー撮影への挑戦であったと本人が後に語っています。
彼のキャリアのスタートはどのような形でしたか?
1908年にニューヨークのヴィタグラフ・スタジオで俳優として活動し、その後、助手の道を歩みながら撮影技術を習得していきました。
引退後に映画界に戻ったことはありますか?
はい。1958年に一度引退しましたが、1966年に公開されたハワード・ホークス監督の『エル・ドラド』に参加するために短期間復帰しています。