ハロルド・プリングル:第二次世界大戦で唯一処刑されたカナダ軍兵士の悲劇
第二次世界大戦という未曾有の混乱期において、軍規違反や犯罪で処罰を受ける兵士は少なくありませんでした。しかし、カナダ軍の歴史の中で、戦時中に死刑執行という極めて異例の結末を迎えた兵士は、わずか一人しか存在しません。それがハロルド・ジョセフ・プリングルです。本記事では、一人の青年兵士がなぜ軍法会議にかけられ、銃殺刑に至ったのか、その波乱に満ちた生涯を辿ります。
主要な事実(Key Facts)
- 唯一の事例:第二次世界大戦中、カナダ軍で唯一処刑された兵士である。
- 罪状:殺人、暴行、および無断離脱(AWOL)。
- 処刑方法:カナダ軍の銃殺隊による執行。
- 没年:1945年7月5日(享年25歳)。
- 埋葬地:イタリア、カゼルタのコモンウェルス戦争墓地。
軍歴の始まりと規律への不適応
1920年、オンタリオ州フリントンに生まれたプリングルは、20歳になる1940年2月にカナダ軍の「ヘイスティングスおよびプリンスエドワード連隊」に入隊しました。もともとは父親と共に志願しましたが、父親は視力不良のため不合格となり、プリングルのみが合格して軍生活をスタートさせました。
しかし、彼の軍生活は最初から困難を極めていました。度重なるAWOL(Absence Without Leave:無断離脱)などの規律違反を繰り返し、更生キャンプへ送られることになります。そこで半年後に脱走した彼は、その後イタリア戦線へと配属され、第1大隊の二等兵として任務に就きました。
ローマでの転落と「セイラー・ギャング」への加入
イタリア中部での「ヒットラー線」を巡る激戦の後、プリングルの人生は決定的な転換点を迎えます。彼は軍を脱走し、ローマに潜伏して「セイラー・ギャング」と呼ばれる犯罪集団に加わったのです。
この集団は、軍の脱走兵たちが結成した小規模な組織で、ローマの闇市場(ブラックマーケット)へ物資を密輸することで贅沢な暮らしを謳歌していました。しかし、酒に溺れ、暴力的な争いを繰り返す彼らの生活は次第に破綻していきます。
内部抗争と殺人の隠蔽
ある時、ギャング内部で銃撃事件が発生し、メンバーの一人であるカナダ兵ジョン・「ラッキー」・マギルバリーが負傷しました。仲間たちは彼を野戦病院へ運ぼうとしましたが、その道中で彼は死亡しました。プリングルを含むメンバーたちは、この事件をマフィアによる殺害に見せかけるため、すでに死亡していた遺体にさらに数発の銃弾を撃ち込むという残酷な工作を行いました。
しかし、この計画は失敗に終わります。警察の捜査によりマギルバリーの正体が判明し、プリングルを含むギャングのメンバーのほとんどが逮捕されました。
裁判と最期
軍法会議にかけられたプリングルは、殺人罪で死刑判決を受けました。その後、判決に対する上訴が行われましたが、これは棄却されました。1945年7月5日、彼はカナダ軍の銃殺隊によって処刑され、イタリアのカゼルタにある墓地に埋葬されました。
ハロルド・プリングルの経歴まとめ
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 氏名 | ハロルド・ジョセフ・プリングル |
| 生年月日 | 1920年1月14日 |
| 軍階級 | 二等兵(Private) |
| 所属部隊 | ヘイスティングスおよびプリンスエドワード連隊 第1大隊 |
| 主な罪状 | 殺人、暴行、無断離脱 |
| 処刑日 | 1945年7月5日 |
Frequently Asked Questions
なぜプリングルだけが処刑されたのですか?
彼は単なる脱走兵ではなく、闇市場での活動中に同僚を殺害し、さらにその死体を損壊して事件を偽装するという重大な犯罪に関与したため、極めて厳しい判決が下されました。
「セイラー・ギャング」とはどのような組織でしたか?
軍から脱走した兵士たちで構成された小規模な犯罪グループです。ローマのブラックマーケットに物資を密輸して利益を得ていました。
プリングルの処刑はいつ、どこで行われましたか?
1945年7月5日にイタリアで執行されました。処刑後、彼はカゼルタのコモンウェルス戦争墓地に埋葬されました。
彼は軍隊に入る前から問題があったのでしょうか?
入隊直後から度重なる無断離脱(AWOL)を繰り返しており、更生キャンプに送られた後も脱走するなど、軍の規律に従うことが困難な傾向にありました。