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セウタ包囲戦(1790-1791)スペイン・モロッコ戦争の転換点

🗓 2026年8月6日

18世紀末、北アフリカの戦略的要衝セウタを舞台に、スペイン王国とモロッコスルタン国の間で激しい軍事衝突が繰り広げられました。1790年から1791年にかけて行われたセウタ包囲戦は、当時のスペイン・モロッコ戦争における最大の山場であり、両国の外交的駆け引きと軍事的攻防が交錯した歴史的事件です。

主要事実(Key Facts)

  • 期間:1790年9月25日 〜 1791年9月14日
  • 結果:スペイン側の勝利
  • 対立構造:スペイン王国 vs モロッコスルタン国
  • 兵力差:スペイン軍 約12,000人に対し、モロッコ軍 約18,000〜20,000人
  • 損害:スペイン側 死亡253名 / モロッコ側 死亡約2,000名

包囲戦の展開と軍事的攻防

1790年9月25日、モロッコ軍によるセウタへの砲撃が開始されました。海からの攻撃が困難であったため、モロッコ側は陸路から14基の砲台を設置し、都市の城壁に突破口を開くことで内部への侵入を試みました。

しかし、この軍事行動は一貫した攻撃ではなく、並行して行われていた和平交渉の影響で断続的なものとなりました。スペイン側は迅速に増援を送り込み、特にアントニオ・バルセロが考案した砲艦(小型の武装船舶)が、スペイン本土との通信維持と補給において極めて重要な役割を果たしました。

停戦と外交的駆け引き

1790年10月14日、モロッコのスルタン・アル=ヤジードの提案により、一時的な停戦が結ばれました。この停戦期間(1790年10月〜1791年8月15日)は、表向きはマドリード政府との交渉のためでしたが、実際には両軍が兵力の増強と物資の補給を行うための準備期間となりました。

モロッコ側はセウタの降伏や金銭的な対価による和平を求めましたが、スペインのカルロス4世はこれを拒否。結果として1791年8月15日に正式に宣戦布告され、再び激しい戦闘が再開されました。

最終局面への攻防

再開後の戦闘では、スペイン軍が機先を制しました。8月25日、砲撃が停止している隙を突き、海軍の支援を受けたスペイン軍が電撃的な出撃を行い、モロッコ側の砲台に甚大な被害を与えました。これに反撃しようとしたモロッコ軍は、8月30日に8,000人の兵力を投入して城壁への総攻撃を仕掛けましたが、突破することはできず失敗に終わりました。

終結と戦後の影響

1791年9月14日、モロッコ軍の指揮官シャリフ・アリは、ついに交渉を申し出ました。撤退の背景には、兵士たちの士気低下に加え、包囲戦による莫大な経済的負担、さらにはスルタンの王位を争う兄弟たちによる内部反乱という深刻な国内問題がありました。

モロッコ軍はその後撤退しましたが、一部の砲兵装備が放棄されたため、9月から10月にかけて小規模な衝突が続きました。かつて兵士たちを突き動かしていた「ジハード(聖戦)」という情熱的な動機も、包囲戦の失敗とともに失われ、最終的に平和条約の締結へと向かいました。

戦況まとめ

セウタ包囲戦(1790-1791)の概要
項目 スペイン王国 モロッコスルタン国
指揮官 ドン・ルイス・デ・ウルビナ、ドン・ホセ・デ・ウルティア ムライ・アル=ヤジード、シディ・シェリフ・アリ
動員兵力 約12,000人 約18,000 〜 20,000人
死者数 253人 約2,000人
戦略的要因 海軍による補給と砲艦の活用 内部反乱と経済的困窮

Frequently Asked Questions

なぜモロッコ軍は海から攻撃しなかったのですか?

当時の状況において、海からの攻撃は不可能であったため、陸上の砲台から城壁を破壊して突破口を作るという戦略が採られました。

停戦期間中、両国は何をしていましたか?

表面上は和平交渉を行っていましたが、実際には両国ともこの期間を利用して軍隊の再編、兵力の増強、および物資の補給を行っていました。

スペイン軍が勝利した決定的な要因は何ですか?

海軍による安定した補給路の確保と、アントニオ・バルセロ考案の砲艦による有効な支援、そしてモロッコ側の内部崩壊(王位継承争い)が複合的に影響しました。

包囲戦が終わった後、すぐに平和が訪れたのでしょうか?

いいえ。モロッコ軍の撤退後も、放棄された砲兵装備を巡って9月から10月にかけて小規模な衝突が続いており、完全に終結したのは平和条約の締結後でした。

References

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  2. , p. 121.
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  6. , pp. 146–151.
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