Frederick Burnham's sidearm, a Remington Model 1875.
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プレザントバレー戦争アリゾナを血に染めた家系抗争の全貌

🗓 2026年8月15日

19世紀後半のアメリカ、アリゾナ準州のプレザントバレーで繰り広げられたプレザントバレー戦争(別名:トントバシン抗争)は、西部開拓史の中でも最も凄惨な「レンジウォー(牧場紛争)」の一つとして知られています。1882年から1892年にかけて約10年間にわたり続いたこの紛争は、単なる土地争いを超え、二つの家族による血で血を洗う復讐劇へと発展しました。

この抗争は、当時のアリゾナ準州が「文明化されていない」という印象を連邦政府に与え、結果として1912年の州昇格が遅れる一因となったと言われています。死者数は35人から50人に及び、関与した家系の男性のほとんどが絶滅するという悲劇的な結末を迎えました。

Key Facts

  • 期間:1882年〜1892年
  • 場所:アメリカ合衆国アリゾナ準州(主にジラ郡、アパッチ郡、ナバホ郡)
  • 主な対立構造:グラハム家(牛牧場主) vs テュークスベリー家(牛・羊牧場主)
  • 犠牲者数:推定35名〜50名
  • 紛争の要因:家族間の不和および、牛牧場主が嫌う「羊」の導入

抗争の火種:牛と羊、そして家族の不和

紛争の中心となったのは、アイルランド系で牛を飼育していたグラハム家と、先住民の血を引くテュークスベリー家でした。当初、両家はジェームズ・スティンソンという有力な牧場主との対立を通じて接点を持っていましたが、次第に両家の直接的な憎しみへと変化していきました。

決定的な対立要因となったのが、1885年にテュークスベリー家が導入したの飼育です。当時の牛牧場主たちは、羊が草を根こそぎ食べてしまうため、オープンレンジ(開放放牧地)における羊の存在を激しく嫌っていました。しかし、歴史家の中には、羊の問題は口実に過ぎず、本質的には家族間の根深い憎悪が原因であったと指摘する声もあります。

この混乱の中、当時の法執行官や雇われのガンマン、そして周辺の牧場勢力が複雑に絡み合い、事態は泥沼化していきました。当時の武装した男たちが使用していた武器の一例として、レミントン・モデル1875のような強力なサイドアームが多用されていました。

Frederick Burnham's sidearm, a Remington Model 1875.

紛争を激化させた外部勢力

この抗争は単なる二家族の争いにとどまらず、地域を支配しようとする巨大な組織が介入することでさらに激化しました。

ハッシュナイフ・アウトフィット

アステカ土地牛cattle会社の分社であるこの組織は、暴力的な気質で知られるカウボーイ集団を擁していました。彼らは自らの利益を守るため、あるいは牛牧場主側の味方として、羊飼いたちを執拗に攻撃しました。数千頭の羊を川に追い込んで溺死させるなどの残虐な行為も行われ、彼らが拠点としたホルブルックでは、人口わずか250人に対し、1886年だけで26人の射殺事件が発生したと記録されています。

ダッグス・アウトフィット

対照的に、テュークスベリー家を支援したのがダッグス兄弟による組織です。彼らは北部アリゾナ最大の羊牧場を経営する実業家集団であり、政治的なコネクションを駆使して、逮捕された従業員を法的に救済させるなど、テュークスベリー側に強力なバックアップを提供しました。

血の連鎖:1886年から1892年への激化

1887年になると、抗争は極めて残酷な局面を迎えます。グラハム側のトム・グラハムがテュークスベリー側のナバホ人労働者を殺害し、遺体を損壊させるという衝撃的な事件が発生しました。これに激昂したテュークスベリー側が反撃し、ブレビンズ家(グラハム側の同盟者)との間で激しい銃撃戦が繰り広げられました。

この時期、正体不明の暗殺者として知られるトム・ホーンが介入した可能性が指摘されています。彼は自伝の中で、この紛争の「調停者」として活動したと主張していますが、実際には雇われの殺し屋として両陣営の人間を抹殺していた疑いが持たれています。

Graves of John Tewksbury and William Jacobs outside of Young, AZ

その後も、仮面を被った男たちによるリンチや、原因不明の殺害事件が相次ぎました。最終的に、両家の男性のほとんどが命を落とし、生き残ったのはエドウィン・テュークスベリーのみとなりました。

終焉と後世への影響

抗争の最後を飾ったのは、トム・グラハムの死を巡る裁判でした。エドウィン・テュークスベリーは殺人の容疑で裁判にかけられましたが、最終的に無罪となりました。しかし、エドウィンは死の間際、継母に対してトム・グラハムを殺害したことを告白したと伝えられています。

1904年にエドウィンが没したことで、この血塗られた歴史に直接関わった人物はすべて姿を消しました。現在でも、アリゾナ州ヤングの墓地には当時の犠牲者たちの墓が残されており、当時の惨劇を静かに伝えています。

The grave of Tom Graham in the "A.O.U.W. & K of P Cemetery" section located in the Pioneer and Military Memorial Park in Phoenix
プレザントバレー戦争の概要まとめ
項目 詳細
主要対立陣営 グラハム家ハッシュナイフ・アウトフィット vs テュークスベリー家・ダッグス・アウトフィット
主な争点 家系間の憎悪、牛と羊の放牧権争い
被害規模 死者35〜50名、主要家系の男性のほぼ全滅
歴史的影響 アリゾナ準州の治安悪化による州昇格の遅延

Frequently Asked Questions

なぜ「羊」が紛争の原因になったのですか?

当時の牛牧場主は、羊が草を根こそぎ食べるため、牛の餌となる草地が破壊されることを極端に嫌っていました。このため、羊の導入は牛牧場主にとって経済的な脅威であり、激しい対立の口実となりました。

ハッシュナイフ・アウトフィットとはどのような組織でしたか?

アステカ土地牛cattle会社の分社で、非常に暴力的で粗野なカウボーイたちを抱えていた組織です。彼らは地域社会に恐怖を与え、競合する牧場や羊飼いたちを武力で排除しようとしました。

トム・ホーンはこの紛争でどのような役割を果たしましたか?

彼は自らを調停者や副保安官として位置づけていましたが、実際には雇われの暗殺者として活動していた可能性が高く、多くの未解決事件に関与していたと考えられています。

この戦争の結果、アリゾナ州はどうなりましたか?

この凄惨な抗争やアパッチ戦争などの混乱により、ワシントンD.C.の政治家たちはアリゾナ準州がまだ「文明化されていない」と判断し、州への昇格を認めませんでした。その結果、州昇格は1912年まで遅れることとなりました。

生き残った人物はいたのでしょうか?

主要な当事者の中で最後に生き残ったのはエドウィン・テュークスベリーです。彼は1904年に亡くなるまで生存しましたが、彼が死ぬ頃には復讐を果たす相手も、彼を庇う仲間もほとんど残っていませんでした。

References

  1. Arizona Silver Belt's founding editor was Aaron H. Hackney

📸 フォトギャラリー

Frederick Burnham's sidearm, a Remington Model 1875.
Graves of John Tewksbury and William Jacobs outside of Young, AZ
The grave of Tom Graham in the "A.O.U.W. & K of P Cemetery" section located in the Pioneer and Military Memorial Park in Phoenix