19世紀後半のアメリカ西部、荒野の街トムストーンで、類まれなる精神力と行動力で知られた女性がいました。彼女の名はネリー・キャッシュマン。単なる実業家にとどまらず、困窮者に手を差し伸べる慈善家として、また危険な地へ飛び込む冒険家として、当時の社会に強い足跡を残しました。

主要な実績とエピソード

  • 多角的な事業展開: レストラン、靴店、食料品店、ホテルなど、多様なビジネスを成功させた。
  • 献身的な社会貢献: 教会の建設支援や、疫病流行時の看護活動、教育機関の設立に尽力した。
  • 家族への深い愛情: 結核を患った姉や、親を亡くした甥・姪たちの教育と生活を全面的に支えた。
  • 大胆な探検心: 金鉱を求めてメキシコのバハ・カリフォルニア半島へ遠征し、死線を越えた。

起業家としての歩み:トゥーソンからトムストーン

1879年、カリフォルニア州からアリゾナ州トゥーソンへ移住したネリーは、ニューヨークの有名店にちなんで「デルモニコ・レストラン」を開業しました。ここで地元の新聞記者ジョン・クラムと親交を深めた彼女は、1880年頃にさらに活気あふれる街、トムストーンへと拠点を移します。

トムストーンでの彼女のビジネス展開は目覚ましいものでした。義理の兄が経営する工場から商品を仕入れた「ネバダ・ブーツ&シューズ」店を皮切りに、衣類やタバコを扱う雑貨店、さらには友人との共同出資による食料品店「トムストーン・キャッシュ・ストア」を成功させました。その後、単独で店を買い取り、1881年までにはレストランのリース契約も結ぶなど、街の経済活動の中心的な人物となりました。

その後、彼女は「ラス・ハウス」というホテル兼レストランを経営し、ここが後に彼女の名を冠したホテルへと発展しました。この店では、伝説的なガンマンであるドク・ホリデイが、不満を持つ客に対してネリーの料理を擁護したという逸話も残っています。

Nellie Cashman's Hotel in Tombstone

慈愛の精神とコミュニティへの貢献

ネリーの人生において、ビジネスと同等に重要だったのが慈善活動です。彼女は1880年から資金集めを行い、翌年には聖心カトリック教会を設立させました。また、鉱山労働者のための病院協会の会計を務め、トゥーソンから慈心修道会のシスター3名を招いて医療体制を整えました。

彼女の献身は危機の際により強く現れました。コチーゼ郡の病院で看護師として活動したほか、街に疫病が蔓延した際には、地元の女性と共に病人の看病に奔走しました。また、アイルランドの土地問題に取り組む「アイルランド国民土地連盟」への支援や、地域の学校設立に向けた組織作りなど、社会基盤の整備にも尽力しました。

家族の絆と困難への直面

1881年、未亡人となった姉のファニー・カニンガムと5人の子供たちをトムストーンに呼び寄せたネリーは、彼らと共に下宿屋を改装し「デルモニコ・ロッジング」を開業しました。ある時、この宿で火災が発生しましたが、迅速な消火活動により被害を最小限に抑えたことで、彼女には「迫りくる火を止めることができる」という伝説が生まれました。

しかし、幸せな時間は長くは続きませんでした。姉のファニーが結核を発症したため、ネリーは家族のケアに専念するため一時的に事業を縮小します。幸いにも1882年に症状が寛解し、姉妹は24時間営業のダイニングを備えた「ジ・アメリカン」ホテルを開業させました。しかし、1884年にファニーが逝去すると、ネリーは残された幼い甥や姪たち、そして母親の面倒を見る責任を一身に背負い、子供たちが宗教教育機関で学べるよう経済的に支援し続けました。

冒険心と正義感:バハ遠征と死刑囚への接し方

ネリーは安定した生活に甘んじる女性ではありませんでした。1883年、金鉱の噂を聞きつけ、鉱夫たちを率いてメキシコのバハへ向かいました。道中、過酷な砂漠地帯で遭難しかけるという危機に直面しましたが、ある説では司祭の助けを借り、また別の説では天使に導かれてミッション(伝道所)に辿り着き、物資を確保して生き延びたと伝えられています。

また、彼女の強い正義感は、1883年末に起きた「ビスビー虐殺事件」の死刑囚たちへの対応にも表れました。ネリーは刑執行まで彼らに寄り添い、精神的な支えとなりました。さらに、死刑執行を「見世物」にしようとした業者が観覧席を設営した際、彼女はこれを不適切だと考え、撤去を働きかけました。結果として観覧席は壊され、執行は公衆の目に触れない形で行われました。また、死刑囚の遺体が医学研究のために掘り起こされそうになった際には、墓地に見張りを立てて遺体を守らせたといいます。

晩年と広範な旅路

トムストーンの衰退とともに、ネリーは1886年に街を離れました。その後、彼女は全米各地を巡り、ノガレス、トゥーソン、ニューメキシコ州キングストン、ユマなどでレストランや下宿屋を経営しました。キングストンの店では、後に石油王となるエド・ドヘニーを皿洗いとして雇っていたという説もあります。

彼女の探鉱活動はアイダホ、ワイオミング、モンタナ、さらには南アフリカにまで及んだ可能性があり、生涯を通じて飽くなき挑戦心を持ち続けました。

ネリー・キャッシュマンの活動まとめ

活動分野 具体的な内容・実績
ビジネス レストラン、靴店、食料品店、ホテルの経営(ラス・ハウス等)
社会福祉 聖心カトリック教会の建設、鉱山病院の支援、疫病時の看護
家族支援 姉の介護、甥・姪たちの教育資金の提供と養育
冒険・探鉱 メキシコ・バハへの金鉱探査、全米各地での鉱区調査

Frequently Asked Questions

ネリー・キャッシュマンはどのような人物でしたか?

19世紀後半のアリゾナ州トムストーンを中心に活動した女性起業家であり、慈善家です。ビジネスの才能だけでなく、深い慈愛の心と、金鉱を求めて旅をする冒険心を持ち合わせていました。

彼女がトムストーンで行った主な慈善活動は何ですか?

カトリック教会の建設資金の調達や、鉱山労働者のための病院への支援、疫病流行時の看護活動、そして地域の学校設立への協力など、多岐にわたる社会貢献を行いました。

バハ遠征ではどのような出来事がありましたか?

金鉱を求めてメキシコのバハへ向かいましたが、砂漠で遭難の危機に陥りました。最終的に物資を確保して生還しましたが、帰路に船長を拘束したことで、到着したグアイマスで一行が逮捕されるという騒動に巻き込まれました。

死刑囚に対してどのような行動を取りましたか?

ビスビー虐殺事件の死刑囚たちに精神的なケアを行い、彼らが尊厳を持って最期を迎えられるよう尽力しました。また、執行時の観覧席の撤去を働きかけ、死後の遺体が不当に掘り起こされないよう警備を立てて守りました。

トムストーンを離れた後はどうなりましたか?

1886年に街を離れ、アリゾナ州の他都市やニューメキシコ州などで飲食店や宿を経営しながら、アイダホやモンタナ、さらには南アフリカまで足を伸ばして鉱区の調査を続けました。