イギリスの政治的基盤である議会の歩みを、単なる出来事の羅列ではなく、そこに身を置いた「個人」の視点から詳細に記録しようとする壮大なプロジェクトがあります。それが英国議会史(The History of Parliament)です。このプロジェクトは、英国議会およびその前身であるグレートブリテン議会、イングランド議会の完全な歴史を編纂することを目的としています。
最大の特徴は、プロソポグラフィー(Prosopography)という手法を採用している点です。これは、個々の議員の詳細な伝記を積み上げることで、組織全体の歴史や構造を浮き彫りにする集団伝記的な研究手法を指します。膨大な分量に及ぶこの記録は、政治家一人ひとりの背景や動機を明らかにすることで、英国政治の真の姿を後世に伝える貴重な資料となっています。
Key Facts
- 目的: 英国議会および前身議会の完全な歴史を、議員個人の伝記を通じて記述すること。
- 手法: プロソポグラフィー(集団伝記)を用いて、個人の経歴から制度の歴史を導き出す。
- 規模: 2019年時点で下院に関する41巻(2,000万語以上)および上院の初期5巻が刊行済み。
- 資金源: 1951年以降、主に英国財務省(Treasury)からの資金援助を受けている。
- デジタル化: 2011年より、完了したセクションがオンラインで公開されている。
プロジェクトの起源と波乱の歴史
この壮大な試みの種は、19世紀後半の不完全な議員名簿にありました。ヴィクトリア朝の歴史家たちは、断片的な名簿や家系図を基に研究を進めていましたが、包括的な記録が欠けていたため、より体系的なアーカイブの必要性が叫ばれていました。
1920年代、当時の国会議員であったジョサイア・ウェッジウッドが中心となり、1264年以降の全議員の記録を作成するよう政府に働きかけました。500人以上の議員の署名を集めて首相に圧力をかけた結果、1929年に選考委員会が設置されました。しかし、ロマン主義的な視点を持つウェッジウッドと、厳格な歴史学者たちの間には深い溝があり、プロジェクトは混乱に見舞われます。1930年代の経済危機も追い打ちをかけ、資金難から委員会は機能停止に陥りました。
それでもウェッジウッドは諦めず、私的な資金調達を行い、1439年から1509年までの期間をカバーする2巻を出版しました。これが後の大規模プロジェクトの先駆けとなりました。

第二次世界大戦後、マンチェスター大学の教授であり歴史家のL.B.ナミエによる強力なロビー活動により、財務省からの公的資金援助が決定しました。これにより「英国議会史信託(History of Parliament Trust)」が本格的に始動し、学術的な厳密さを備えた編纂体制が整えられたのです。
対照的な二人の先駆者:ウェッジウッドとナミエ
プロジェクトの基礎を築いたウェッジウッドとナミエは、人間性においても歴史観においても対極に位置する人物でした。自由主義的な貴族であったウェッジウッドは、議会の歴史を「自由と権利が拡大していくロマンチックな物語」として捉えていました。
対して、保守的な視点を持つナミエは、そのような物語的な解釈を否定しました。彼は「なぜその人物が議会に入ったのか」という個人の動機や人間関係、権力構造に執着し、徹底的に客観的なデータに基づいた分析を重視しました。このナミエの厳格なアプローチが、現在のプロジェクトの標準的な形式(フォーマット)を決定づけることになります。
編纂の構造と出版の歩み
ナミエはウェッジウッドの初期の仕事を不十分であるとし、1439年以降の記述をゼロから書き直すことを決定しました。膨大な作業量のため、当初は15に分かれていたセクションは後に6つに統合されました。
刊行物の標準的な構成は、以下の3段階で成り立っています:
- 導入調査: 時代の概況、統計分析、政治的背景の解説。
- 選挙区解説: 各選挙区の選挙結果や、そこに影響を与えた勢力の分析。
- 議員伝記: その期間に在籍した全議員の個別の経歴。ただし、記述は議会活動に特化し、私生活は最小限に留める。
1964年に1754年〜1790年の巻が出版されて以来、18世紀から19世紀、さらには中世(1386年〜1421年など)へと対象期間が拡大していきました。21世紀に入ると、デジタル化が進み、CD-ROMやウェブサイトを通じて、膨大な資料へのアクセスが容易になりました。

上院への展開と今後の展望
当初、このプロジェクトは下院(House of Commons)に特化していましたが、1999年からは上院(House of Lords)の包括的な記録作成も開始されました。2016年には1660年から1715年までをカバーする5巻が刊行されています。
現在も、15世紀から16世紀、および17世紀半ば(1640年〜1660年)などの空白期間を埋める作業が進行中です。また、ロンドン大学高等研究学院(IHR)との連携により、議会日誌のデジタル化など、一次史料の保存と公開にも注力しています。
出版状況まとめ
| 対象機関 | カバー期間 | ステータス | 備考 |
|---|---|---|---|
| 下院 | 1386–1421 | 完了 | 4巻構成 |
| 下院 | 1422–1461 | 完了 | 2020年刊行(7巻) |
| 下院 | 1509–1832 | 大部分完了 | 複数の期間に分けて刊行済み |
| 下院 | 1832–1868 | 準備中 | Philip Salmonらが担当 |
| 上院 | 1660–1715 | 完了 | 2016年刊行(5巻) |
| 上院 | 1715–1832 | 準備中 | 2つのセクションに分割予定 |
Frequently Asked Questions
プロソポグラフィーとは具体的にどのような手法ですか?
個々の人物の経歴、家族関係、教育、職業などの共通点や相関関係を大量に収集し、分析する手法です。個人の伝記を積み上げることで、当時の社会構造や政治的な派閥、権力のネットワークを客観的に明らかにすることができます。
なぜこのプロジェクトにこれほど長い時間がかかっているのですか?
対象となる議員の数が膨大であり、一人ひとりの経歴を一次史料に基づいて厳格に検証しているためです。例えば、ある期間だけで2,000人近い議員の伝記を作成する必要があり、その分量と精度を維持するために数十年単位の時間が必要となります。
一般の人でもこれらの内容を読むことはできますか?
はい。ロンドン大学高等研究学院が運営する「History of Parliament Online」にて、すでに刊行されたセクションの全文が公開されており、誰でも閲覧することが可能です。
アイルランド議会の歴史についてはどうなっていますか?
1930年代に計画されましたが、資金不足により一度断念されました。その後、別組織であるアルスター歴史財団(Ulster Historical Foundation)によって1692年〜1800年の歴史が6巻にわたって編纂され、2002年に出版されています。
このプロジェクトに対する評価はどうですか?
概ね高く評価されていますが、一部の批評家(A.J.P.テイラーなど)からは、「個人のデータの集積に過ぎず、統合された『歴史』になっていない」という批判もありました。しかし、近年の刊行分については、その詳細さと分析の深さが広く称賛されています。
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