ワークハウスの歴史:英国における貧困救済制度の変遷と実態

かつての英国やアイルランドにおいて、自力で生計を立てることが困難な人々が収容されたワークハウス(救貧院)は、単なる宿泊施設ではなく、労働と生活が一体となった「全制的施設」でした。スコットランドでは一般に「プアハウス」と呼ばれ、困窮者に住居と仕事を提供することで社会的な救済を図る仕組みとなっていました。

この制度の起源は古く、1388年のケンブリッジ条例にまで遡ります。黒死病による深刻な労働力不足に対処するため、労働者の移動を制限したことが、結果として国家が貧困層を支援する責任を負う端緒となりました。しかし、19世紀に入るとナポレオン戦争後の大量失業や農業の機械化、凶作が重なり、従来の救済システムは限界を迎えます。

Former workhouse in Nantwich in Cheshire, dating from 1780

Key Facts

  • 目的: 経済的に自立できない人々への住居提供と、労働による自立の促進。
  • 転換点: 1834年の「新救貧法」により、施設外での救済(屋外救済)が厳しく制限された。
  • 労働内容: 石割りや骨の粉砕(肥料用)、オークム(古いたるなどの繊維)の解きほぐしなどの単純労働。
  • 変遷: 当初は労働可能層向けだったが、次第に高齢者や病人の避難所へと役割が変化した。
  • 終焉: 1930年に制度として廃止され、1948年の国民扶助法によって完全に消滅した。

救貧制度の進化と「新救貧法」の衝撃

初期の取り組みとギルバート法

18世紀後半になると、効率的な救済を目指す動きが現れます。1782年のギルバート法では、複数の教区が連合(ギルバート連合)を組み、高齢者や病人を収容する大規模なワークハウスを共同で運営することが可能になりました。一方で、労働能力のある貧困層には、地域での就業支援や屋外での救済が優先されていました。

The 'Red House' at Framlingham Castle in Suffolk was founded as a workhouse in 1664.[6]

1834年新救貧法の導入

1830年代、救済制度の乱用が問題視されるようになり、政府は1834年に「救貧法改正法(新救貧法)」を制定しました。この法律の最大の特徴は、労働能力がある人々への屋外救済を原則禁止し、「ワークハウスへの入所」を唯一の選択肢としたことです。これにより、救済を求めることへの心理的・物理的なハードルを上げ、安易な依存を防ごうとしました。

この急進的な改革に対し、特に工業地帯の北部では激しい抵抗が起こりました。失業者が求めていたのは、過酷な施設への収容ではなく、一時的な生活支援だったためです。

Contrasted Residences for the Poor (1836), by Augustus Pugin. He was critical of Kempthorne's octagonal design shown above.

ワークハウスでの過酷な生活実態

厳格な規律と日課

施設内では、極めて厳格なスケジュールが課せられていました。入所者は早朝5時から6時に起床し、食事時間を除いた一日の大半を単純労働に費やしました。夜は20時に就寝という、工場のような管理体制となっていました。

ワークハウスの標準的な一日スケジュール
時間 活動内容
05:00 – 06:00 起床
06:30 – 07:00 朝食
07:00 – 12:00 労働
12:00 – 13:00 昼食
13:00 – 18:00 労働
18:00 – 19:00 夕食
20:00 就寝

"The workroom at St James's workhouse", from The Microcosm of London (1808)

一時収容区(カジュアル・ワード)の状況

浮浪者などが一時的に利用した「カジュアル・ワード」は、さらに劣悪な環境でした。寝具は藁やぼろ布のみという場所もあり、翌日の出発までには石割りなどの労働が義務付けられていました。1883年以降は、再入所者の拘束期間が延長されるなど、抑止力としての側面が強まりました。

Entrance to casual wards of Leeds Union Workhouse, built in 1901

制度の変容と最終的な廃止

医療施設への転換

19世紀後半になると、ワークハウスの役割は「労働者の収容」から「弱者の保護」へとシフトしていきます。高齢者や病人が増えたため、施設内の診療所(インファーマリー)の重要性が高まりました。1883年には、入所者以外の人々にも治療を提供することが認められるようになり、一部の施設は私立病院のように機能し始めました。

The Carlisle Union Workhouse, opened in 1864, later part of the University of Cumbria

近代福祉国家への移行

20世紀に入ると、一律の収容制度は不適切であるとの認識が広まりました。1905年から1909年にかけての王立委員会は、入所者の特性に合わせた専門施設への分散を推奨しました。その後、1929年の地方政府法により、ワークハウスの診療所は市営病院へと移行し、1930年4月1日に制度としてのワークハウスは正式に廃止されました。

しかし、名称を「公的扶助施設」に変えて運営が続いた場所もあり、完全に救貧法の残滓が消え去ったのは、1948年の国民扶助法が施行されてからのことでした。

Leeds Union Workhouse, now the Thackray Museum of Medicine, built 1858–1861 in the long corridor design

Frequently Asked Questions

ワークハウスでどのような仕事をしていたのですか?

主に石を砕く石割りや、肥料を作るための骨の粉砕、また「スパイク」という金属釘を使って古いロープなどの繊維を解きほぐすオークム作りなど、単純で過酷な労働に従事していました。

誰でも簡単に入所できたのでしょうか?

入所は可能でしたが、新救貧法の下では、あえて「屋外での救済」よりも劣悪な環境に設定することで、本当に困窮している人だけが利用するように設計されていました(劣等処遇の原則)。

子供たちはどのように扱われていましたか?

子供たちも収容され、教育や労働に従事させられていました。施設によっては専用の靴が支給されるなど、最低限の管理が行われていましたが、家族から引き離されるなど過酷な環境にありました。

廃止後の建物はどうなったのですか?

多くは地方自治体が運営する老人ホームや市営病院に転用されました。現在では、博物館として公開されている施設や、住宅に改装されて利用されているケースもあります。

なぜ1930年になっても完全に消えなかったのですか?

制度としては廃止されましたが、実際には行き場のない高齢者や病人を収容し続ける必要があったため、「公的扶助施設」という名目で運営が継続されたためです。