アメリカ西部の法執行の歴史において、ハリー・ウィーラーほど対照的な評価を受ける人物は少ないかもしれません。卓越した射撃能力を持つ勇敢な法執行官としての顔を持つ一方で、労働争議における強権的な手法で歴史に名を刻んだ人物でもあります。フロリダ州ジャクソンビルに生まれ、軍歴を経てアリゾナの治安維持に人生を捧げた彼の足跡を辿ります。
主要な事実(Key Facts)
- 軍歴:米陸軍第1騎兵隊に所属し、米西戦争に従軍。
- アリゾナ・レンジャーズ:1903年に入隊し、最終的に隊長(キャプテン)として組織を率いた。
- 保安官時代:コチーゼ郡の保安官を3期務め、禁酒法の厳格な執行に尽力した。
- 歴史的事件:1917年の「ビスビー追放事件」を主導し、多くのストライキ参加者を強制的に国外へ追放した。
- 法的影響:彼の行動を巡る裁判は、個人の移動の自由に関する米最高裁の重要な判例となった。
法執行官としての台頭とレンジャーズ時代
1875年に誕生したウィーラーは、米陸軍大佐ウィリアム・B・ウィーラーの息子として育ちました。22歳で第1騎兵隊に入隊して米西戦争を経験し、1902年に軍曹の階級で除隊しています。その後、その類まれなる射撃技術を活かして1903年にアリゾナ・レンジャーズ(州の精鋭法執行機関)に加入しました。
入隊からわずか4ヶ月で軍曹に昇進した彼は、トゥーソンやベンソンでの激しい銃撃戦を通じてその名を広めました。1907年にはトーマス・H・リニングの後任として隊長に就任し、1909年に組織が解散するまでリーダーとして指揮を執りました。

コチーゼ郡保安官としての権力と禁酒法
1911年、ウィーラーはコチーゼ郡の保安官に選出され、その後2回にわたり再選を果たしました。彼の任期中、アリゾナ州では1915年から禁酒法が導入され、酒類の製造・販売が厳しく制限されました。ウィーラーはこの法律の忠実な執行者となり、密造酒の取り締まりや密輸業者との激しい戦いに時間を費やしました。
1917年3月には、メキシコからの密輸グループと銃撃戦を展開し、ウィンチェスターライフルを用いて相手を撃退。この事件が、国境の法執行官としての彼の最後の銃撃戦となりました。
ビスビー追放事件と強権的な統治
ウィーラーのキャリアにおいて最も議論を呼んでいるのが、1917年6月に発生したビスビーの鉱山労働者によるストライキへの対応です。フェルプス・ドッジ社に対するストライキに対し、彼は2,200人の特別補導員を組織して対抗しました。
7月12日、彼は約2,000人を拘束し、そのうち約1,300人のストライキ参加者や支持者を家畜運搬車に詰め込み、ニューメキシコ州エルマナスへと強制的に追放しました。この出来事は「ビスビー追放事件」として知られています。また、彼は町への出入りに「パスポート」を義務付け、正体不明の男性を秘密裏に設置した「カンガルー裁判所(不公正な即決裁判)」にかけ、多くの市民を追放し、戻ればリンチに処すと脅迫しました。
この強引な手法に対し、ウッドロウ・ウィルソン大統領が任命した委員会は、この追放劇が州法および連邦法のいずれにおいても完全に違法であったと結論づけています。
晩年と法的な結末
第一次世界大戦が勃発すると、ウィーラーは1918年3月に保安官を辞任し、大尉として軍に再入隊しました。しかし、ビスビー追放事件に関する法的手続きのため、同年12月に名誉除隊となりました。
司法省は彼を含む多くの関係者の逮捕を命じましたが、彼は当時フランスに派遣されていたため、直接的な逮捕は免れました。その後、この事件は最高裁判所まで争われ、「合衆国対ウィーラー事件(United States v. Wheeler)」として1920年に判決が下されました。最高裁は、個人の移動の自由を保護するのは州の権限であり、連邦法では保護されていないという判断を下し、結果的に被告側が勝訴することとなりました。
1922年に再び保安官選挙に立候補したものの、民主党の予備選で敗北。その後はビスビー近郊に定住し、1925年12月に肺炎でこの世を去りました。
| 期間 | 役職・活動 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1897年 - 1902年 | 米陸軍第1騎兵隊 | 米西戦争に従軍、軍曹として除隊 |
| 1903年 - 1909年 | アリゾナ・レンジャーズ | 隊長として組織を統率 |
| 1911年 - 1918年 | コチーゼ郡保安官 | 禁酒法執行、ビスビー追放事件の主導 |
| 1918年 | 米陸軍大尉 | 第一次世界大戦に従軍 |
Frequently Asked Questions
ハリー・ウィーラーはどのような人物でしたか?
卓越した射撃能力を持つ法執行官であり、アリゾナ・レンジャーズの隊長やコチーゼ郡の保安官を務めた人物です。治安維持に尽力した一方で、労働者への強権的な弾圧を行ったことでも知られています。
「ビスビー追放事件」とは何ですか?
1917年、ビスビーの鉱山労働者がストライキを起こした際、ウィーラー保安官が主導して約1,300人の労働者を家畜車でニューメキシコ州へ強制的に追放した事件です。後に連邦政府の委員会によって違法であると断定されました。
最高裁判所での判決(United States v. Wheeler)の結果はどうなりましたか?
最高裁は、個人の移動の自由を保護するのは州の責任であり、連邦法にはそれを制限または保護する権限がないと判断しました。これにより、ウィーラーらは連邦法違反の罪を免れました。
ウィーラーはなぜ保安官を辞任したのですか?
1918年、アメリカが第一次世界大戦に参戦したため、軍に再入隊して大尉として奉仕するために辞任しました。
彼の最期はどうなったのでしょうか?
1922年の選挙に敗れた後、ビスビー近郊で静かに暮らしていましたが、1925年12月に肺炎により亡くなりました。