アッシリア人ジェノサイド:オスマン帝国における悲劇の歴史

中東の先住民族であり、独自の言語と文化を持つアッシリア人(シリア・アラム人やカルデア人とも呼ばれる)は、20世紀初頭に壊滅的な打撃を受けました。第一次世界大戦の混乱の中で、オスマン帝国政府とその協力者によって行われた組織的な虐殺は、彼らの歴史における最大の悲劇となりました。

この出来事は、単なる戦争の犠牲ではなく、特定の民族・宗教集団を排除しようとする計画的な「民族浄化」の側面を持っていました。本記事では、この悲劇の背景から、各地で起きた虐殺の実態、そしてその後の影響について詳しく解説します。

Key Facts

  • 犠牲者数: 推定約25万人が殺害された。
  • 実行主体: オスマン帝国軍、特別組織(Special Organization)、および一部のクルド族部族。
  • 主な地域: ハッカリ、ディヤルバクル、ウルミア(ペルシャ)など。
  • 時代背景: 第一次世界大戦中の1914年から1924年にかけて展開。
  • 政治的背景: 若手トルコ人党(CUP)によるトルコ民族主義の台頭。

悲劇への序曲:悪化する対立と政治的背景

アッシリア人が直面した危機は、突如として始まったわけではありません。19世紀半ばのハッカリ地方での虐殺や、1895年のディヤルバクルでの事件など、オスマン帝国支配下でのキリスト教徒への迫害は段階的に激化していました。

特に1908年の「青年トルコ人革命」以降、帝国内で強力なトルコ民族主義が台頭しました。これにより、非トルコ系の人々、特にキリスト教徒であるアッシリア人やアルメニア人は、国家の統一を妨げる「内部の敵」と見なされるようになりました。

tinted photo of a hillside village
: Mata Khtata, a Baz village in Hakkari, c. 1900

第一次世界大戦と組織的な虐殺の展開

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国は同盟国側として参戦し、同時に国内の少数民族に対する弾圧を本格化させました。これはアルメニア人ジェノサイドと並行して行われたもので、アッシリア人の間ではサイフォ(Sayfo:シリア語で「剣」の意)と呼ばれています。

高地ハッカリ地方の民族浄化

山岳地帯のハッカリ地方では、アッシリア人の集落が攻撃され、多くの人々が故郷を追われました。彼らは過酷な環境の中、生き延びるために山々を越えて逃走することを余儀なくされました。

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: A 1922 map of the Southeastern Anatolia region. The historical region of Hakkari is the mountainous area in the triangle formed roughly north of Amadia and southeast of the line going south-to-north from Jezire ibn Omar to Khoshab, all west of the Ottoman–Persian border. Note that archaic place names are used on this map.

低地および都市部での虐殺

ディヤルバクルやマルディンなどの都市部では、より直接的で残酷な殺戮が行われました。政府の指示を受けた「屠殺大隊」などが、非アルメニア系のキリスト教徒をも標的にし、組織的な処刑や強制移住を強行しました。

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: 1920 painting by Leonardo de Mango of the execution of Chaldeans in the Wadi Wawela gorge

ペルシャ(現イラン)への波及

虐殺の波は国境を越え、ペルシャ北部のウルミア地方にも及びました。ロシア軍の撤退後、アッシリア人は孤立し、オスマン帝国軍や地元部族による激しい攻撃にさらされました。多くの生存者がイギリス軍の支援を求めて逃走し、イラクのバクバへと向かいました。

Refugees, some on foot and others riding cattle
: Jilu Assyrians crossing the Asadabad Pass towards Baqubah, 1918

犠牲者の規模と地域別損失

このジェノサイドによる人的損失は極めて甚大であり、地域ごとに以下のような被害が記録されています。

地域別推定犠牲者数
地域 推定犠牲者数(人)
ヴァン(ハッカリ含む) 80,000
ディヤルバクル 63,000
ビットリス 38,000
ペルシャ(ウルミア等) 40,000
ハルプット 15,000
ウルファ 9,000
その他(アダナ、デリゾール等) 5,000
合計 250,000

戦後の混乱と独立への模索

戦争終結後、生き残ったアッシリア人たちは1919年のパリ講和会議に代表団を派遣し、独自の国家建設や自治権の獲得を訴えました。しかし、国際社会の関心は低く、彼らの要望が現実のものとなることはありませんでした。

See caption
: The Assyro-Chaldean delegation's map of an independent Assyria, presented at the Paris Peace Conference, 1919

結果として、多くの人々がイラクなどの地へ亡命しましたが、そこでも新たな対立に直面することになります。1933年のシメレ虐殺など、彼らの苦難は戦後も続きました。現在、アッシリア人の多くは世界各地に分散し、ディアスポラ(離散共同体)としてその文化とアイデンティティを守り続けています。

Frequently Asked Questions

アッシリア人ジェノサイド(サイフォ)とは何ですか?

第一次世界大戦中、オスマン帝国政府とその協力者が、アッシリア人などのキリスト教徒に対して行った組織的な大量虐殺および民族浄化のことです。

なぜアッシリア人が標的になったのですか?

当時のオスマン帝国で台頭したトルコ民族主義により、宗教的・民族的に異なるキリスト教徒が、国家の統一を脅かす存在として排除の対象となったためです。

犠牲者はどのくらいの数に上りますか?

地域によって異なりますが、合計で約25万人が犠牲になったと推定されています。特にヴァンやディヤルバクルなどの地域で甚大な被害が出ました。

この出来事はアルメニア人ジェノサイドと関係がありますか?

はい、密接に関係しています。どちらも同じ時期に、同じオスマン帝国政府の主導によって、同様の目的(民族浄化)で行われた一連の虐殺の一部と考えられています。

戦後、アッシリア人はどうなったのですか?

パリ講和会議で独立を求めましたが認められず、多くがイラクやシリアへ逃れ、あるいは欧米諸国へ移住してディアスポラとなりました。