19世紀後半、新世界の歴史に名を刻んだ人物を網羅することを目指して刊行されたAppletons' Cyclopædia of American Biography(アップルトン・アメリカ伝記百科事典)。1887年から1889年にかけて全6巻で出版されたこの著作は、長きにわたり信頼性の高い権威ある資料として重宝されてきました。しかし、後年になってこの百科事典には、実在しない「架空の人物」の伝記が数十件も混入していたという衝撃的な事実が明らかになります。
Key Facts
- 収録規模:米国市民2万人以上、および中南米諸国の著名人数千人を収録。
- 構成:全6巻(後に補遺を含む第7巻が追加)。約1,500点の肖像画や自筆署名の複写を掲載。
- 捏造の判明:1919年にジョン・ヘンドリー・バーナートが架空の植物学者の記述を発見したことで発覚。
- 偽造の数:現在までに144件の架空の伝記と、9件の疑わしい記述が特定されている。
- 原因:執筆者が分量に応じて報酬を得る仕組みであり、編集側のチェックが形式的な確認に留まっていたため。
百科事典の概要と構成
本書は、アメリカ合衆国の市民だけでなく、北米および南米のあらゆる国々の注目すべき人物を包括することを目的としていました。米国籍の人物2万人以上に加え、数千人の中南米市民、さらにはアメリカ史に深く関わった外国生まれの人物約1,000人が名を連ねています。
視覚的な資料も豊富で、60枚のフルページ肖像画や1,500枚の小さなビネット肖像画、さらには著名人の生家や記念碑、墓地の風景写真などが数百点収録されており、当時の資料として非常に豪華な作りとなっていました。
特筆すべきは、個々の記事に執筆者の署名やイニシャルが一切ない点です。誰が書いたかを知るには、巻末の寄稿者リストと記事を照らし合わせる必要がありましたが、この方法は非常に不便であり、さらに一部の記事(グローバー・クリーブランド大統領の項など)については、リストに名前がない「正体不明の執筆者」によるものであることが判明しています。

「幽霊」たちの正体:組織的な捏造の露呈
この百科事典が悪名高い理由となったのが、巧妙に仕込まれた架空の伝記の存在です。1919年、ジョン・ヘンドリー・バーナートがラテンアメリカを研究したとされる欧州の植物学者14名の記述がすべて作り話であることを突き止めたのが始まりでした。その後、調査が進むにつれ、捏造の規模は拡大し、1939年までには47件の偽伝記が特定されました。
捏造の手口と特徴
ガウチャー大学のマーガレット・キャッスル・シンドラーによる1937年の分析では、捏造を行った人物は科学的な訓練を受けており、6か国語のタイトルを捏造できるほどの言語能力と、南米の地理・歴史に関する深い知識を持っていたと推測されています。実在の地名や歴史的事実を巧みに織り交ぜていたため、一見すると本物に見える仕掛けになっていました。
しかし、詳細に検証すると以下のような矛盾点が見つかりました。
- 他の正当な伝記から詳細をコピーして流用していた。
- 地理的・制度的な時代錯誤や、事実誤認が含まれていた。
- 本人の職業や経歴と、著書とされるタイトルの内容が著しく乖離していた。
- 国籍と、著書の言語が一致していなかった。
- 著名な科学者や探検家としてはあり得ない、初歩的な綴りや文法の誤りがタイトルに見られた。
責任の所在
ジョセフ・カンティリオンは、「幻のイエズス会士」に関する記事の執筆者がウィリアム・クリスチャン・テナーであると特定し、94件の偽エントリーをリストアップしました。また、ジョン・ブライス・ドブソンは、第3巻以降の南中米関連記事のソースとなっているヘルマン・リッターが関与していた可能性を指摘しています。
出版の背景と版の変遷
本書の基盤となったのは、1872年に出版されたフランシス・S・ドレイクの『Dictionary of American Biography』です。ドレイクが第2版の準備中に1885年に死去したため、彼が収集した最新の資料や修正事項がそのままアップルトン版に統合されました。
初版はニューヨークのD.アップルトン社により1887年から1889年にかけて発行され、ジェームズ・グラント・ウィルソンとジョン・フィスケが編集責任者を務めました。1901年には索引や補遺を含む第7巻が発行され、1968年にはゲール・リサーチ社によって(修正されないまま)再版されています。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 出版期間 | 1887年 〜 1889年(初版) |
| 巻数 | 全6巻(1901年に第7巻を追加) |
| 収録人数 | 米国人2万人以上、中南米人数千人、外国出身者約1,000人 |
| 判明している偽伝記数 | 144件(+疑わしい9件) |
| 主な編集者 | James Grant Wilson, John Fiske, Rossiter Johnson |
Frequently Asked Questions
なぜこれほど多くの架空の人物が掲載されたのですか?
当時の執筆体制が、記事の長さに応じて報酬を支払う仕組みだったためです。また、編集スタッフによるチェックが形式的な書式の確認に留まっており、内容の真偽を検証する厳格な査読プロセスが欠如していたことが原因と考えられています。
偽物の伝記を見分ける方法はありましたか?
はい。実在の人物であればあり得ない言語の矛盾(国籍と著書言語の不一致)や、地理的な時代錯誤、あるいは他の正当な記事からの盗用などが手がかりとなりました。特に科学的な肩書きを持ちながら、著書のタイトルに初歩的な文法ミスがある場合は疑わしいとされました。
この百科事典は現在でも資料として価値がありますか?
多くの正当な記事が含まれているため、依然として価値のある著作ですが、特にラテンアメリカに関する記述については、他の信頼できるソースで裏付けを取るまで慎重に扱うことが推奨されています。
タイトルにあるアポストロフィの位置について間違いが多いのはなぜですか?
正しくは「Appletons'」(複数形への所有格)ですが、多くの著者が誤って「Appleton's」(単数形への所有格)と表記して引用しているため、文献学的な誤記が定着してしまっています。
References
- ↑ The event was amusing and momentous enough to be mentioned in the obituary written at Barnhart's death, Obituary Notices of Fellows of the Royal Society 7.19 (November 1950: 35–61) p. 52.